礼拝メッセージ(2018年10月28日)

『神よ、わたしを憐れんで下さい 』詩編 51:1 ~21 執事 小林 政彦

「神の憐れみを請い願うダビデの祈り」
ダビデは自分の罪を色々な言葉で表している。罪は一言で言い表す事が出来ないほど奥深い。ダビデは、神から離れ的外れな生き方をしてきた結果、犯した諸々の罪を悔い「(ああ)神よ、わたしを憐れんでください」と叫びに似た祈りを神の御前に差し出す。

「ダビデの罪」
ウリヤの妻バトシェバにダビデは心ひかれ王という立場を利用して姦淫の罪を犯す。そればかりか罪を隠すために夫ウリヤを激しい戦いの最前線に出し戦死させる。預言者ナタンから罪を指摘され、心砕かれ七日七晩泣いた。(サムエル記下11章2節から12章12節)聖書は権力に決して迎合しない主にある「預言者の強さ」と「小さく弱い存在」にすぎないこの世の王ダビデを対比させる。しかしこの2人の間にはまぎれもなく神が臨在しておられた。神は預言者ナタンを用いて神から離れているダビデを悔い改めへと導く。それはダビデを罪から救いだすためだった。

「悔い改め」
悔い改めは、単純に過去を振り返って反省や後悔をする事ではない。神との関係回復を祈り求め、『わたしと共に生きよ』との神の迫りに応え、新たな出発をさせて頂くこと。過去は神の無条件の憐れみによって赦されるしかない。私たちは自分の罪を自分の努力で清算する事は残念だが出来ない。自分で自分の生きた人生を清める事も出来ない。

「神に立ち帰るように」
神に罪を告白し憐れみを求める者に、「赦し」が与えられる。安っぽい(安価)な「赦し」ではない。私たちが本来負うべき痛みをイエス・キリストの「十字架」が担う赦し。悔い改めは私たちの罪を赦し、罪責から解放し主に在る平安の道へと導く。今日この時、悔い改めの心に導かれ、神によって新しくされた者として、希望に満ち溢れた恵みの一歩を踏み出していきたい。