礼拝メッセージ(2019年6月9日)

『 時が来れば実現する神の言葉 』 ルカによる福音書 1章:18~23節 牧師 林健一

ペンテコステ(聖霊降臨)
 聖書には「霊(プネウマ)と肉(サルクス)」という言葉がでてきます。「霊」は神さまから来るものを表し、「肉」は人間から出るものを表し、両者は一つに交わりません。肉と霊は敵対しているのです。ペンテコステ(聖霊降臨)の日に聖霊が降り教会が誕生(使徒2章)しますが、ここで初めて弟子たちは肉の縛りから解放され、聖霊の働きにより、イエスさまを主と証しする者に変えられました。
 するとすぐに「肉」との戦いが始まります。なぜなら「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和」(ローマ8:6)だからです。これまでは自分の思い(都合)で最善を選べば良かったのですが、ここからはイエス・キリストが主人です。聖霊とは信仰者の中に座を占めるキリストです。「内住のキリスト」とも言い表します。
 つねに肉は霊に敵対し反抗します。肉に支配されて生きるなら、信仰に生きる喜びはありません。私たちは誰を主人としているのか、このとき自己吟味をする必要があるのではないでしょうか。

何によって 知ることができるのでしょうか。
 肉の思いに生きている人は、終始自分を満足させなければ気がすみません。今日読んだ箇所は、ユダヤの年老いたザカリアが香をたいております時に、天使から御告げがありました。神さまご自身が、神さまのために準備された民を用意させるべく、男の子ヨハネを産ませるという、そういう喜ばしい音信(おとずれ)が告げ知らされました。この天使告知に対するザカリアの返事、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか」(ルカ1:18)。この彼の受け答えから、ザカリアは口が利けなくなって聖所から出てくる。というところです。
 一般には、ザカリアの不信仰が罰せられて口が利けなくされた、と理解されてきました。ザカリアが信じなかったことに対する刑罰として、あるいは懲らしめとして、口が利けなくなった。果たしてそうなのでしょうか。私たちは自分の視点で読んで理解しようとし神さまの出来事を結論づけようとします。しかし、そうであるなら大切な神さまからのメッセージを聞き逃してしまいます。キリストの思いによって神さまの言葉を聴き、理解していきたいとそのように思います。