礼拝メッセージ(2020年5月3日)

『 イエスは立ち去られた 』  ルカによる福音書 4章:25~30節  林健一 牧師

福音と恵みに激怒したナザレの会堂の人々
 イエスさまはご自分につまずいた故郷ナザレの会堂の人々にそれでも神さまはあなたたちを、すべての人々を喜んで受け入れるのだと「福音」を語られました。今日読んだ箇所では旧約聖書から例を出して語られました。人々の反応はイエスさまに激怒したのです。28節には「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し」。イエスさまが語られた神さまの福音・恵みへのナザレの会堂の人々の応答は、怒りが抑えられなかった福音・恵みに対して大いに怒ったのです。そればかりか
29節 人々は総立ちになって、イエスさまを山の崖から突き落とそうとしました。人々は衝動が抑えられなくなりイエスさまを皆でリンチしようとしたのではないか…。なぜ人々は「福音」よき知らせである言葉に対して、また神の子であるイエスさまに激怒したのでしょうか。そればかりでなくイエスさま、それは父なる神さまを人々は自分たちのまえから消そうとしたのでしょうか。それは自分たちの正しさが、神さまの愛と恵み、福音に激怒したからです。

人々の心にあったもの
 前回、ナザレの人たちはイエスさまの言葉を借りれば「カファルナウムでしたしるしをこの郷里でもしてくれ」(23)。神さまのしるし、奇跡を見せてほしいのでしょう。人々が神さまご自身よりしるしに心奪われていたこと。それ以上に神さまの恵みに対する憤慨にイエスさまは彼らの心の中を見抜かれました。「どうしてナザレでなく、あのカファルナウムでしるしをおこなったのか」。あのカファルナウムで…我々のところに来てしるしを行うのが先ではないか…。神さまの恵みを受けるのは我々が先だという当然の思い。そしてカファルナウムの人々に対しての優越感、当時、カファルナウムはローマの駐屯地で商業、漁業で栄えていた町でした。ユダヤ人以外の人たちも大勢いました。取税所があり、ここで弟子マタイが召命を受けた場所でもありました。ナザレの人々にとって自分たちを支配している奴らがいる、異邦人、ユダヤ人から見れば罪深い、穢れた人々がいる場所で神さまの恵みをあらわすようなことをするのはおかしいではないか。約束の民である我々のところに来て恵みをあらわすのが当然だという思いがあったのです。

許せないのです。神さまの恵みが…
 許せないのです。神さまの恵みがあんな奴に注がれることが… ナザレの人々をとおして神さまは私たちに罪を示します。すべての人々に恵み深い神さまが許せない。あの人が私をひどく傷つけた。侮辱した。許せない。私たちの心にある自分こそが第一であるという思い。これが罪です。神は神であり自分は造られた存在であることが受け入れられないのです。この心はあらゆる場所、時、人間関係のなかで歪みをもたらし、人々を攻撃せずにはいられません。自分を絶対者として裁判官として相手のまえに立ち正義をふりかざして支配したい。人間の罪の暴走は止まりません。
 そういうまえに立ちはだかる神さまの福音、恵みに憤る、許せない私たちがいるのです。旧約聖書のヨナ書には預言者ヨナがニネベの町の人たちが神さまの御前に悔い改めて赦されたことに対する神さまへのヨナの激怒が書かれています。ヨナ書4章2節「わたしにはこうなることが分かっていました。あなたは恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」