礼拝メッセージ(2023年7月2日)
『 命のパンくず 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 6章:1節~15節

06章 01節:その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
06章 02節:大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
06章 03節:イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
06章 04節:ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
06章 05節:イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
06章 06節:こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
06章 07節:フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
06章 08節:弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
06章 09節:「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
06章 10節:イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
06章 11節:さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
06章 12節:人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
06章 13節:集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
06章 14節:そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
06章 15節:イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

ヨハネによる福音書 6章:1節~15節(新共同訳)

 「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」イエス様は質問なさいました。わたしたちはいつも、この神の御手を忘れます。「この状況の中でわたしたちは何をするのが最善なのでしょうか?」と、祈りなさいと言っておられるようにも思えます。フィリポとアンデレの提案は、そのどちらも「ため息」に終わりましたが、実は、イエス・キリストは現実に目を向けられるお方なのです。この時イエス様は、子供のお弁当「5つのパンと2匹の魚」をお取りになりました。そこから不思議なことを起こされます。それは、わたしたちの想いや計算や議論をはるかに越えたものです。

 それは「5つのパンと2匹の魚」という現実を用いた奇跡でした。わたしたちは呟きます。「自分には力がない」「自分には財力もない」。でも、あなたには何かがありはしませんか?この「5つのパンと2匹の魚」のように、何か、があなたにはありませんか?そのあったものを主に奉げるのです。それだって、実は主が下さったものです。

 わたしたちの心は、いつだってないもののほうに目が向いてしまうのです。心が奪われてしまうのです。それでは出てくるのは「ため息」ばかりです。今日、イエス様は、わたしたちにこうお教えになるのです。あなたがたが、捧げるものに神の御業は行われるのですよ。このお話だって、小さな子供が差し出したお弁当をイエス様がご覧になられたからこそ起きたことなのです。小さな子供の少しのお弁当。その、もっとも小さなものから奇跡をおこなわれるのです。

 このお話は、これで終わりではありませんでした。十分みんなが食べたところでイエス様は「少しも無駄にならないように、残ったパンのくずを集めなさい」と言いました。集めたところ、5つのパンから十分に食べた残りが、12の籠にいっぱいになりました。素晴らしい神の業を受けた時、わたしたちはただ感謝をするだけで終わりませんか?この2匹の魚と5つのパンを差し出した少年は、どうなったでしょう?きっと、残ったパンを抱えきれないほどに持ち帰ったのではないでしょうか。イエス様は残りのパンくずを集めるように仰いました。今、パンくずと言いますが、「わたしはいのちのパン」であるとはどなたが言った言葉でしょうか。このお話で、わたしたちの心には何が残ったでしょうか。私たちが、自分にある精一杯のものをイエス様に献げるとき、それは人から見ればわずかでしかないかもしれません。しかし、イエス様はそれを何百倍にも祝福し、私たちの手に返してくださるお方です。この「残りのパンくず」は、イエス様が示されたわたしたち人間への祝福の姿ではありませんか。