礼拝メッセージ(2024年5月26日)「神の建物」 石井努 牧師

1:コリントの信徒への手紙一/ 04章 01節
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
2:コリントの信徒への手紙一/ 04章 02節
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
3:コリントの信徒への手紙一/ 04章 03節
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
4:コリントの信徒への手紙一/ 04章 04節
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
5:コリントの信徒への手紙一/ 04章 05節
ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
6:コリントの信徒への手紙一/ 04章 06節
兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。

コリントの信徒への手紙一/ 04章 01節~06節(新共同訳聖書)

            

 パウロは、福音を「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと。」(15:3)だと語っています。そして、 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。とも、(1章で)語っています。土台とは何でしょう。皆さんはすでに承知されているでしょう。その土台とは、イエス・キリストだとパウロは力説するのです。建物には様々な材料が用いられます。パウロは、金・銀・宝石・木・草・わら。と六つの素材をあげています。「金・銀・宝石」は高価な材料です。また「木・草・わら」は、安価です。最近の建売住宅のように、「安く早く」が悪いと言っているのではありません。だからといって、この世の価値観の高い材料を使うのが良い建築になると言っているのでもないことは、皆さんもお解りでしょう。その内の三つは火によって燃えない物、他の三つは燃えてしまうものです。こちらに注目してみましょう。「神の神殿」には、「金・銀・宝石」は相応しいと考える方もおられるでしょう。しかし、パウロは、飾りや材料のことを言っているのではないようです。では、この「金・銀・宝石」を何に例えているのでしょう。ここでは「かの日の火」の裁きに耐えられるものとして挙げられているようです。それに対して、「木・草・わら」は、燃えやすく「火の裁き」に耐えられないものとして、挙げられています。


 だれかがその土台の上に建てた。ここで言う誰かとは誰でしょうか。「アポロにつく」などという記述から、アポロだという人もいましたが、アポロは既にコリントにはいませんでした。「だれか」とは、この時コリントの教会を指導している人たちのことを指しています。3節でコリントの教会に「お互いの間に妬みや争いが絶えない」と書かれています。なぜそのようになってしまったのか。それは、イエス・キリストの土台の上に建てるはずの指導者が、相応しくない材料を用いて建てているからなのです。本来使わなければならなかった、十字架の言葉ではなくこの世の知恵で建てようとした。しかし、その働きは賜物によるものではないのですから、裁きの火に焼かれて燃え尽きるものなのです。本来なら、主の恵みという報酬を受けるはずが、結局、そのような者は燃え尽きて、自分の信仰すら揺らいでしまうかもしれません。それを、損害を受けると言っているのです。聖書は語ります。「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」人々を誤った方向に向かわせようとする人間の、自分勝手に創り上げられた教えに、影響されて、振り回されることのないように、日々の注意を怠ってはなりません。そうでは無く、イエス・キリストの愛をいただき互いに想い合い、神の家族という絆で結ばれて、聖霊によって一つになることなのです。