~からの解放をもとめて
私たちは何かしらのものに依存している。依存させられていると言ったほうがいいかもしれない。お金、娯楽、スポーツなど。厄介なのは楽しみでなくやらなければならないという恐怖に支配されてしまうこと。それだけでなく私たちはこう生きなければならない。という世間体のなかで苦しんでいることだ。弱い自分、愚かな自分として生きることが許されない。キリスト教会も「悔い改め」という恐怖を用いて支配してきた。時に悔い改めは自分の愚かさ、恥、弱さを隠すため都合のいいように使われることがある。イエスさまが私たちに迫る悔い改めは神さまが私たちを変えられることを受け入れることだ。中途半端に変えられるのでなく神さまによって全く新しい人に変えられていく。それしか私たちを苦しめている、縛っているものから解放される道はない。