礼拝メッセージ(2018年11月4日)

『 す べ て の 人 が 集 め ら れ る 』イザヤ書 56章:1 ~8節  牧師 林 健一

 私たちは人生に問題が起きたときにどこを見るでしょうか?問題の原因や問題を起こす人を見ようとします。この世の常識ではそうでしょう。しかし、聖書はそのような方法での問題解決を提示していません。ではどのような方法で人生に起きるさまざまな問題を解決する方法を提示しているのでしょうか。本日お読みしたイザヤ書56章にある背景は、神様と神様の御言葉に絶望したイスラエルの人たちの姿から始まります。バビロン捕囚から帰還したイスラエルの人たちは希望に満ちあふれていました。彼らを待ち受けていた現実はそうではありませんでした。厳しい現実が彼らを待っていたのです。そのような希望の持てない生活の中で、神様は預言されました。預言とはこの世界、そして私たちひとりひとりに示された神様の御心です。

神様は絶望しているイスラエルの人々に神様の救い実現が間近であると預言されます。神様は人々に「正義を守り、恵みの業を行なう」(1節)ことを教え「安息日を守り」(2節)そして「悪事に手をつけない」人は幸いだと語られました。神様がイスラエルの人々に求められたこと。それは「神様との正しい関係を築き上げ」・「神様の御心のなかで歩む」ことでした。決して難しいことではありません。しかし、単調であり時間がかかることでした。そこには神様に対する信頼が必要です。信仰生活はじつに単調であり、かつ忍耐を求められるものです。じつはその先に平安があります。現実の問題は大きすぎて私たちを圧倒します。しかし、その問題以上に神様が大きい方であることを私たちの目は見ようとしません。問題ではなく神様と約束に私たちの目が注がれることを神様は求めておられます。聖書はこの方法こそ、唯一の問題解決だと教えます。神様はイスラエルの人々にさらに加えてこう語られました。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」(7節)問題と困難のなかにあるイスラエルの人々はバビロンから共に来た「異邦人」と「宦官」の人たちを律法(申23:2~3参照)のもとに主の集まりから排除しようとします。心に余裕がなくなっていくとき人々は主の名のもとに呼び集められた互いを受け入れあうことができなくなってしまったのです。愛の欠如でした。神様への不信から出てきたことでした。しかし、神様は主を求める者たちすべてが「神の救い」に招かれていることを宣言するのです。もう一度私たちは神様の招きが私、すべての人に与えられている救いであることを確認したいと思います。