礼拝メッセージ(2018年3月18日)

「聖書の言葉が実現するため」

マルコによる福音書:14章43節~52節

林 健一 牧師

 

神様のドラマ
この世界は神様の栄光が現れる舞台であるとジョン・カルヴァンは言いました。パラリンピックで選手たちの懸命な姿を見るとき人間とはこんなにもすばらしいのかと感動します。しかし、反対に政治の世界では知らぬ・存ぜぬなどの互いに責任をなすりつけ合う醜い姿を連日目にしている私たちですが、どちらが人間の本当の姿なのでしょうか?
いよいよイエス様が捕えられてしまいます。今日の御言葉は悲劇の場面であり、弟子たちにとっては突然起きた出来事ですが、確かに「聖書の言葉が実現するため」(49節)の神様のドラマです。
裏切りの口づけ
14:45 ユダはやって来るとすぐに、イエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。
14:46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。
イエス様を捕えるために出て来た群衆の中に「十二人の一人であるユダ」(43節)がいました。最も近くにいた人物の裏切りによってイエス様は捕えられました。ユダはイエス様の逮捕を実行するために「先生・ラビ」と尊敬のことばを使い、偽りの愛の口づけによってイエス様を売りました。(45節)しかし、イエス様はその口づけを避けられませんでした。イエス様はこのすべてのことが、神様のご計画のうちでなされることを知っていたからでした。イエス様は裏切ったユダを最後まで愛されたのです。神様の愛が全うされるためでした。
衝動的な剣
14:50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
ユダに続いてペトロが登場します。ペトロは瞬間、剣を抜いて大祭司のしもべに襲い掛かり、その耳を切り落としました。しかし、その行動の後、ペトロはイエス様を捨てて逃げていきました。(50節)ここで私たちは、人間の一貫性のない、衝動的な愚かさを見ることができます。私たちもやはり、イエス様に対する思いが情熱的であったり、簡単に冷めてしまったり、一貫性のないときが多くあります。しかし、主イエス・キリストは最後まで父なる神様への従順を示されました。
捨てていった亜麻布
14:52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。 
弟子の全員がイエス様を見捨てて逃げてしまいました。逃げてしまいました。(50節)しかし、一人の若者が素肌に亜麻布を一枚まとったままで、イエス様について行きました。しかし、彼も捕まりそうになった時に(51節)、亜麻布を捨てて、裸のまま逃げてしまいました。イエス様は一枚の亜麻布のように弟子たちから見捨てられたのです。(50節)捕えられたイエス様はひとりになられました。しかし、イエス様は最後まで神様に聞き従い、神様の御心のままに、神様のドラマを完成させられます。
イエス様を通して神様に信頼していくことの厳しさ、難しさを私たちは教えられます。しかし、同時に信頼していった者だけが受取ることのできる祝福も教えられます。私たちにはできませんがイエス様に依り頼むならば従い通すことのできる信仰と勇気をイエス様は与えてくださるのです。