安全を図るアブラハム
聖書・創世記:12章13節 どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。」
アブラムのすばらしい点は、まっすぐに神さまに向かって行くところにあったと思いますが、必ずしもそれは最初から、もしくは万全に、ではなかったようです。アブラムは激しい飢饉によって神さまが約束されたカナンの地を離れ、エジプトに下っていきます。アブラムの人生に飢饉という大きな危機がやって来たのです。彼が思いついた対策は、肥沃で食物の多いエジプトに下って行くことです。アブラムに対する最初の試みと言えます。アブラムは神さまに御心を聞くことをしないで自分の判断でエジプトに行こうと決断をします。ところがそれとは別の危険を感じたアブラムは、妻のサライに、エジプト人に彼の妹だと言ってくれるように頼みます。そうすれば生きのびることができると思ったからです。アブラムは妻を妹と偽って、自らの身の安全を確保しようとしたのでした。
人間の知恵と計画の限界
聖書・創世記:12章15節 ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
アブラムがエジプトに入ると、彼が予想したとおりのことが起こりました。エジプト人がサライの美しさに注目しました。ファラオの家臣たちまでがサライの美しさを褒めました。これでうまく事態をすり抜けたように思ったアブラムでしたが、予想外のことが起きてしまいます。妻のサライはファラオの宮廷にまで入っていくことになってしまいます。アブラムは自分なりに最善の計画を立てましたが、思いもよらない事が起こってゆく結果となったのです。アブラムが立てた知恵と計画は、結果として彼が想定していた以上の重荷となって返ってきたのでした。彼が偽りよって手に入れた幸いは、この後、大変な結果をもたらすことになります。
愛する者を導かれる神さま
聖書・創世記:12章17節 ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた。
私たちは、自分のしたことに言い訳をします。アブラムも仕方なかったのだと言い訳したかったに違いありません。しかし、どう弁明を試みはしても、神さまの目から見たらアブラムのした行為は屈折しているのです。主なる神は、アブラムの妻サライのゆえに、ファラオと宮廷の人々に恐ろしい病気をあたえられました。歪みを正し、もつれを解くようにして、神さまはことの真相を明らかにされます。アブラムは今しがた神さまに指摘され、矯正された者のごとくに、痛く苦々しい経験を教訓にエジプトの地を去ります。エジプトのファラオの口から「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。 」(18節)とうそを指摘され、諭されたのですから、信仰の父と呼ばれることになるアブラムも立つ瀬がありません。あかしにもならない自らの醜態を振り返りながら、どんなにかばつが悪い思いで、彼はこの国を後にしたことでしょう。
最後に このような失敗の一つひとつが、アブラムの信仰を育てました。小細工せずにまっすぐに神さまに向かう道が、結局は最上最短の道のりであることを、彼は痛い目に遭いながら体得し、身に付けていくのです。失敗は私たちの信仰を練りきよめ、まっすぐに矯正する肥やしともなりえます。 |