礼拝メッセージ(2019年9月29日)

『 あけぼのの光は訪れる 』 ルカ1:78b~80  牧師 林健一

本当の光は影をあらわす。
 本日の聖書の箇所では「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の影に座している者たちを照らす」とあります。メシア(救い主)は光となって人々を照らす存在、役割なのだというのです。それは私たちに何を意味しているのでしょうか。
 聖書教育10月~12月号の「クリスマス・メッセージ」p4~5参照の一文をご紹介します。
影のない偽りの光 金子純雄先生(古賀バプテスト教会)「今日、多くの人々が、それこそ「昼を欺く」人工の光に囲まれて「影」を見ることも、それに気付くこともない日々を過ごしています。」自然の光は私たち人間がつくりだすことができません。光が照らしだすままに物事を見るだけです。光が消えれば暗闇が目の前にきます。私たちは暗闇の中で光を求めるのです。神であるイエス様があなたのもとへ来られたのは本当の光であるイエス様に照らされてあなたの人生に影があることに気付かせるためなのです。礼拝でも同じことです。神の言葉である聖書によってわたし、あなたの生活の中に光が照らされ影に気づき神に救いを祈り求めるのです。あなたは自分の影に気づいているでしょうか。本当の光に照らされるときあなたは自分の影に気づくのです。

あなたは行く必要はない神があなたのところへ来てくださるのだ
 本当の光であるイエス様は「憐れみ」によってあなたのところへ来てくださるのだ。というのです。「憐れみの心」を持つお方であるイエス様は「暗闇と死の影に」うずくまっている人々のところに来てくださり照らしてくださいます。イザヤ書9章1節「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。先ほどあなたは自分の影に気づいているかと問いかけをしました。暗闇に気づく者だけが光を求めるのです。聖書は人間、神に背いたこの世界の暗闇、おぞましさの現実をこれでもかと描き出しています。だからといって神・聖書を誤解しないでほしいのです。神はあなた、わたしが暗闇の気づき光を求めて神のところへ行くようにと招いておられます。祈りはまさに暗闇の中にいる人間が神のもとへ行くことができる道です。祈ってください。祈れなければ祈ってくださいと互いに祈り合いましょう。キリストの体である教会はあなたの弱さを担うところなのですから。

光は私たちの歩みを平和・シャロームに向けてくださる。
 光は私たちを照らすだけが目的ではありません。最終的なゴールである「平和の道に導いて」くださるのです。ですが「平和の道」がゴールではありません。イエス様は私たちの足を平和・シャロームの道、シャロームの生活、そういう世界に入るようにと導かれます。私たちは平和の道を歩き続ける者へと神によって変えさせられていくのです。もし私たちが平和といいながら家族、人々、ましては自分を傷つけているような歩みをしているなら、その人は本当の平和にある歩みをしている人ではありません。真に神を求める、平和を求める歩みがどのような歩みであるのか共に神から、いのちの言葉である聖書から謙虚に聴き続けてまいりましょう。