礼拝メッセージ(2020年10月11日)

 『 心からあふれ出る言葉 』  ルカによる福音書 6章:43~45節 林健一 牧師

 今日読んだ聖書では三つのたとえが語られています。第一に、43、44節の前半で「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる」と言われています。木の良し悪しは、その木が結ぶ実を見れば知ることができる。なぜなら悪い実を結んでいたら良い木ではないし、良い実を結んでいたら悪い木ではないからだ、ということです。第二に、44節の後半で「茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない」と言われています。「茨」は棘のある雑草で穀物に害をなすものであり、また「野ばら」は実を結ばない象徴であったようです。第三に、45節の前半で「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」と言われています。倉に良いものを入れるならばその倉から出すのは良いものであるし、悪いものを入れるならば悪いものしか出せないのです。この三つのたとえにおいて見つめられていることは、45節後半のイエスさまのお言葉に示されているのではないでしょうか。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」つまり人が語っていることは、その心からあふれ出ることである、ということこそが、この三つのたとえにおいて見つめられているのです。このことは、言い換えるならば、人が語っていることによって、その人の心を満たしているものが分かるということです。心の倉に良いものを入れることによって、良いことを語るのだし、悪いものを入れるならば悪いことを語るのです。この「倉」という言葉は、「宝箱」という意味を持つ言葉でもあります。宝箱ですから、そこになにを入れるかは大切なことです。「心の宝箱」がみ言葉で満たされているとき、私たちの心から神への賛美が、隣人への愛が溢れ出し、私たちはそれを語り出します。ですから私たちは自分の「心の宝箱」に、み言葉を入れるのであって、それ以外のものを入れないようにするのです。「心の宝箱」に悪いものを入れるならば、私たちの心からは悪いものが溢れ出し、それを私たちは語るからです。

 けれどもこのことは私たちを追い詰めます。確かに一方で私たちは、自分の口によって神さまを心から賛美し、神への信頼と信仰を告白します。また隣人を愛し、苦しんでいる人、悲しんでいる人がいれば、その方に寄り添って語りかけます。しかしその一方で、この一週間の歩みを、それどころか昨日一日だけの歩みを振り返ったとしても、私たちは神さまを賛美するのと同じ口で、どれだけ神さまを悲しませてきたかに気づかないわけにはいかないのです。私たちは一方で自分の心にみ言葉を蓄え、その一方で隣人への妬み憎しみを蓄えています。しかしそうであるとしても「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」というイエスさまの教えによって、私たちはボロが出ないように取り繕って語ったり、一方で神さまを賛美し、その一方で隣人を憎む自分の現実に引き裂かれたりする必要はないのです。そうではなく、私たちにとって決定的なのはどちらの自分なのかに目を向けなければなりません。私たちが目を向けるのは、自分が人を愛せず、赦せず、妬みや憎しみの言葉を語っていることではなく、そのような言葉しか語れなかった私たちのために主イエスが十字架で死んでくださり、私たちを新しく造り変えてくださったことによって、なお罪の力が残っているとしても、神への賛美と信頼と告白が、そして隣人への愛の言葉が自分の心から溢れ出ていることなのです。私たちの心が主イエスの赦しと愛おいて満たされるものとなりますよう祈りましょう。