礼拝メッセージ(2020年10月18日)
『 揺り動かされぬ家 』 ルカによる福音書 6章:46~49節 林健一 牧師
本日はイエスさまの説教の結びの後半から聞いていきます。46節でイエスさまは「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」と言われています。イエスさまは、「主よ、主よ」と呼びかけ祈っているのに、なぜわたしが言われたことを行わないのか、と聞くわたしたちに問われているのです。私たちは「主よ、主よ」と呼びかけて祈ることが赦されています。どんなときであれどんなことであれ「主よ、主よ」と祈り、主の助けと憐れみを求めて良いのです。しかしそのように祈りながら、なぜイエスさまが言われることをあなたがたは行わないのかと問われているのです。「わたしの言うことを行わないのか」とイエスさまは言われます。イエスさまの言うこと、イエスさまの言葉を聞くとは、神の言葉を聞くことにほかなりません。神の言葉を聞きそれを行うとは、そのような一つ一つの行いの源にあること、つまり神の言葉を聞き、信じて受け入れ、神さまとの正しい関係の中を歩み、それゆえ隣人との正しい関係の中をも歩むことにほかなりません。「主よ、主よ」と祈っているのに、祈りにおいては主に感謝し、願い求めているのに、日々の生活においては神さまとなんの関わりもないかのように生きるのならば、神さまとの正しい関係なしに生きているのであり、「主よ、主よ」と祈りながら、イエスさまの言われることを、み言葉を行わない者なのです。 み言葉を聞いて行う者も、聞いても行わない者も家を建てていることにおいては同じです。なにが異なるのでしょうか。それは、み言葉を聞いて行う者が「岩の上に土台を置いて家を建てた」のに対して、聞いても行わない者は「土台なしで地面に家を建てた」のであり、土台があるかないかが決定的に異なるのです。み言葉を聞いて行う者、つまり日々の生活において神さまとの正しい関係の中を歩む者とは、神の言葉を土台とし、その土台の上に日々の生活を築いていく者です。それに対して、み言葉を聞いても行わない者、つまり日々の生活において神さまとの関わりなしに歩む者とは、神の言葉という土台なしに日々の生活を築く者なのです。そして神の言葉を土台とするとは、主イエス・キリストが十字架によって私たちを救ってくださったということを土台とすることにほかなりません。神の言葉である聖書は、一貫してキリストの十字架による救いを語っているからです。 岩の上に土台を置いた家は、洪水になって川の水がその家に押し寄せても、しっかり建ててあったので、「揺り動かすことができなかった」と語られています。私たちの家が、私たちの生活が「揺らぐことがない」のは、私たちが自信を持っているからとか、固い信念を持っているからとか、なにが起きても動じることがない冷静沈着さを身につけているからではありません。そのような私たちが持っていたり、身につけていたりしているものの上に、家を建て、日々の生活を築いたとしても、人生の中で起こる想像もしなかったような苦しみや悲しみ、不安や恐れのゆえに、私たちの日々の生活は大きく揺さぶられ、たちまち倒れ壊れてしまいます。しかし私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を土台とするとき、人生において想像を絶する苦しみや悲しみ、不安や恐れに襲われたとしても、決して揺らぐことがないのです。「揺らぐことがない」とは、主イエス・キリストの十字架と復活という土台を信じて受け入れ、その救いの恵みで心が満たされている私たちへの神さまの約束の言葉なのです。今週もイエス・キリストの救いに生かされて歩んでまいりましょう。 |