礼拝メッセージ(2020年10月4日)

『 目の中の丸太 』  ルカによる福音書 6章:39~42節 林健一 牧師

 今回の聖書箇所の39節以下には、イエス様が新たにたとえを用いて語られたことが記されています。盲人が盲人の道案内をするという話と、弟子と師についての話、そして目の中のおが屑と丸太という話です。これらはいわゆる「たとえ話」とは違いますが、具体的な事柄にたとえてある教えを語られたのです。この三つのたとえには、それらを貫く一本の線があります。その線は、これら三つのたとえがいずれも「見る」ないし「見える」ということに関係していることに注目することによってはっきり見えてきます。「兄弟の目にあるおが屑は見える」とは、人の目の中にあるそういう小さなちりや埃に気付くこと、人の小さな罪や欠点をあげつらい、ことさらにそれを指摘し、要するに粗探しをして、それを取ってやるという親切を装いつつ人を批判することのたとえです。しかし実はその人自身の目には「丸太」があるのです。その意味は、その人の目は塞がれていて何も見えていない、ということです。「私には、あなたの目の中のおが屑が、ちりが見える」と言っているけれども、実はその人の目は丸太で塞がれてしまっていて、何も見えてはいないのです。私たちはこのようなことを日常の生活の中でしばしば体験します。

 それでは、自分の目が見えているのか、それとも丸太で塞がれてしまっているのか、はどうしたら分かるのでしょうか。つまり本当の意味で目が見えているとはどういうことなのでしょうか。先週私たちは37、38節を読みました。そこには、人を裁くな、人を罪人だと決めるな、赦しなさい、与えなさい、と教えられていました。イエス様はここで、本当の意味で見えている目とは、人を裁かず、罪人だと決めず、赦し、与えようとする、そのような目なのだ、と教えておられるのです。私たちは、これらのことによって、自分の目が見えているのか、それとも丸太に塞がれてしまっているのかを判断することができるのです。もしも私たちが、人のことを裁いてばかりおり、人を罪人だと決めつけ、赦そうとしない、人の苦しみや悲しみに気付かず、自分から進んで助けようとしない、そのような生き方をしているのであれば、私たちの目は丸太で塞がれてしまっていて、見るべきものが見えていないのです。

 イエス様は42節の最後で、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とおっしゃいました。私たちは、本当の意味で目が見えていない偽善者です。私たちは、先ず自分の目から丸太を取り除かなければならないのです。しかし、私たちの目を塞いでいるこの丸太を取り除くことは、自分では出来ません。それをすることができるのは、主イエス・キリストお一人なのです。イエス様はそのことを、私たちの目を塞いでいる罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによってして下さいました。イエス様の十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかることによって、私たちの目は開かれるのです。本当の意味で見えるようになるのです。その私たちの開かれた目は、人を裁くことのない目です。人を罪人だと決めない目です。自分に罪を犯す者をも赦すことができる目です。人の必要を、苦しみを見て取り、自分のものを与えて助けていくことができるような目です。そのような、本当の意味で開かれ、見えるようになった目で隣人を見ることができるようになった時にこそ、私たちは、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができるようになるのです。