礼拝メッセージ(2020年3月22日)

『 霊の力に満ちて 』 ルカによる福音書 4章:14~15節  林健一 牧師

 主イエス様は荒野で悪魔の誘惑を受けました。あらゆる手段をもって悪魔は誘惑をしましたがイエス様は神の子として悪魔の誘惑を退けられました。神様をこれ以上「試す」必要がどこにあるだろうか(4:12)。神様への信頼と恵みの中に留まり続けたイエス様でした。日本全体が不安と恐れの中にあるのを思いますが神様の守りと恵みの中に踏みとどまることができるよう主イエス様のお支えと助けを祈り求めたいと願います。
 「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(13)。悪魔はイエス様を誘惑し続け、「時が来るまで」十字架の時まで一時離れました。イエス様も地上の生涯では誘惑を受けることから逃れることはなかった。そこにも私たちは大きな励ましを与えられます。この世界に生きている以上誘惑はどこまでもついて来る。しかし、私たちが信じる主イエス・キリストは誘惑に打ち勝たれたお方である。いま私たちはこのお方と共に歩んでいること、「霊の力」(14)に満ち溢れて今日も私たちに救いのみ言葉を語られているのです。
 「イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4:14)。主イエス様はいよいよ、伝道を開始されます。その一番始めに、イエス様はガリラヤに帰られました。自分が育ったガリラヤをその伝道の出発点とされたのです。「ガリラヤ」という地名は、ヘブライ語で「周辺の地」、「辺境の地」を意味します。当時のガリラヤ地方は、最も豊かな、最も人口の密集した、しかも異民族がいろいろと入って来ているいちばん先端を行っている地域でした。文化的には国際的に開けている地域でした。一方で旧約聖書イザヤ8:23にガリラヤという地名がでてきます。「今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない。先にゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが後には、海沿いの道、ヨルダン川のかなた異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。」異邦人ガリラヤ、宗教的には神様から遠く離れた地として見られていました。自由あるいは柔軟な考えを持っているから神様の言葉を聴くことができるわけではないことを聖書は私たちに教えています。人間が聖書をわかる、それは救いの言葉であるということがはっきりと心に示されるためには私たちの心を照らす外からの光が必要だということです。イエス様はガリラヤの人々に福音を宣言されました。それはこう理解しなさい。こう考えなさい。という哲学ではありません。神様を知ることのできない人間の心に「神様はおられる」「神様はあなたを愛しておられる」と私たちの心に再び神様への思いに気づかせる力ある言葉でした。私たちもイエス様の言葉、福音を聴き続けたいと願います。福音とは何であるのか、知識をもって知ることも大切です。けれどもあなたの心に神様が直接語られていることを知ってほしいと願います。神様が心配することはないと言われた心で受け取ってほしい。恐れることはない、平安を与える、神様が語られる豊かなみ言葉を受け取ってください。
 「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(4:15)。イエス様が会堂で人々に語られた教え、この中にはイエス様の「行い」力あるみ業も含まれています。驚くべきことに人々はイエス様の語られる福音を聴き、イエス様の言葉に感動し尊敬したということです。イエス様の語られた福音には人々の心をゆり動かす力がありました。「霊の力に満ちて」ということをどう私たちは理解したらよいのでしょうか。それは摩訶不思議な力のことを言っているのでしょうか?そうではありません。私たちを罪に気づかせ、神様の救いが必要である。そしてイエス様の十字架に救いがあることを悟らせることです。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。」(Ⅰコリント2:4)パウロは当時の人々が忌み嫌う十字架に真の救いがある理解しがたいことです。それゆえに霊と力によって語らせていただいているのだと証するのです。人々にとってつまらないと思える聖書の言葉が霊の力によって心に届くことを信じつつ喜びを持って聴き続けていけるよう祈り願います。