礼拝メッセージ(2020年3月8日)
「ただ主に仕えよ」 ルカによる福音書 4章5節~8節 林健一 牧師
イエス様が公の働きに入って人々の前に姿を現す前に荒れ野で悪魔の誘惑をお受けになった。ルカによる福音書はイエス様が悪魔から三つの誘惑をお受けになったと書かれています。先週は一つ目の誘惑を読みました。今週は二つ目、第二の試みについて読んでまいりましょう。
更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。(5節)
第一の試みで悪魔は「神の子なのだから、石をパンに変えてもいいのではないか」(3節)とイエス様にささやきます。悪魔の誘惑に対してイエス様は「人はパンだけで生きるものではない」(4節)と言われました。そこには自分のために神の子としての力を使うのでなく父なる神様の御心に従っていく神の子としてのイエス様の決意がありました。私たちも試練の時、自分をどう救おうかともがくのでなく父なる神様にゆだねていきたいと思います。第一の試みに失敗した悪魔は次に「世界のすべての国々を見せた」のです。マタイ4章の方では「イエスを非常に高い山に連れて行き」、全世界の国々の繁栄を見せた。とあります。上から見下ろした世の国々の栄光はイエス様にはどのように映ったのでしょうか?悪魔はイエス様に何を試みようとしているのでしょうか?
そして、悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(6・7節)
悪魔は「あなた」という言葉を用いて神の子であるイエス様を巧みに誘惑します。神の子である「あなた」だから、「これと思う人に与えることができる」と悪魔はイエス様にささやきます。悪魔は誰でもいいのでなく神の子であるイエス様にこのような誘惑をしました。このことを通してイエス様は「どういう神の子」なのか「どういうキリスト」なのかをはっきりさせるという特別な意味を持った試練を受けたのです。悪魔のイエス様に対する狙いは「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」でした。悪魔は全世界の国々はわたしに任せられている。「もしわたしを拝むなら」悪魔はイエス様にささやくのです。これらを手に入れるために神様から少しぐらい離れてわたしを拝んでもいいのではないか。
神の子、救い主としてこれから歩もうとされるイエス様に悪魔は神様から離れろ、こちらに来た方がいいとささやきます。キリストのものとして歩む時私たちは試練を受けます。一時父なる神様から離れろ。こちらが安全だ。この時だけだ。この時が過ぎたらまた神様のもとに戻ればいい。イエス様は悪魔のささやきに何と答えられたのでしょうか?
イエスはお答えになった。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』(8節)
イエス様は今度も悪魔の誘惑を退けられました。申命記6章13節「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え」、10章20節「あなたの神、主を畏れ、主に仕え」とイエス様は言われました。イエス様は神の子として、また救い主として歩みを始められるにあたってご自分の姿勢を示されました。それは「ただ主をのみ拝し、主にのみ仕える」という、もっぱら神様に献身する道筋と姿勢でもって神の子、救い主としての使命を果たされるのだ。ということです。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必用なことはただ一つだけである」(10:41~42)。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あたがたは、神と富とに仕えることはできない」(16:13)。イエス様は神の子であればこそ神にのみ仕える。という道を選ばれました。だからこそ神様はイエス様を通して私たちの救いを成し遂げることが出来たのです。神以外のものプラスという誘惑は周囲に山ほどあります。ですがイエス様が神のみを拝み、仕えた道を行かれたように私たちも神のみを拝み、仕える道を貫いていくことができるよう今週も神様を共に礼拝していきましょう。