礼拝メッセージ(2020年5月31日)

『 お言葉による大漁 』  ルカによる福音書 5章:1~9節 林健一 牧師

神の言葉を聞く
1節 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。

 本日はペトロの召命のところを読んでいきます。神の言葉(み言葉 ホ・ロゴス)を聞こうとして群衆が主イエスさまのもとに押し寄せてきました。主イエスさまが群衆に語った「神の言葉」、神について語る言葉ではありません。神から来た言葉、神から出た言葉を「ロゴス・セウー」を主イエスさまは語りました。群衆が熱心に主イエスさまの言葉に耳を傾けていた傍らではシモン・ペトロは漁の後片付けをしていました。この日は夜通し働いたのに何一つ取れなかった。今日の糧がない。心揺れる思いのなかで主イエス様から語られる神の言葉を聞いていたペトロ。どういうふうに私たちも神の言葉を聞いていけばよいのでしょうか?主イエスさまの言葉を聴くために集まっていた群集のなかで場違いなシモンです。ですがシモンに主イエスさまは神の言葉を語られました。主イエスさまの方からあなたに近づきあなたの心に触れてくださり語りかけてくださいます。これが私たちの神さまです。今がそのときであります。あなたは主イエスさまの語り掛けを拒むのでしょうか、それとも受け入れるのでしょうか。

上からのお方として
5節 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。

 主イエスさまはシモンの舟に乗り、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました(4節)。シモンは漁の疲れや自分たちが漁のプロであるにもかかわらず、「先生…しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と応答しました(5節)。「先生」というのは通常律法を教える者に使う「ラビ・師」でなく「エピスタテース(上に立つ者)」。シモンは主イエスさまをラビ以上の方として見ている。主イエスさまから言葉を「神の言葉」として聞いたのです。シモンがお言葉ですからと言った思いには「神の言葉ですから」という思いがありました。その通りにすると驚くべき大漁となったのです。驚くべきことが起こりました。シモンは結果がわかって主イエスさまの言葉に従ったのでしょうか。そうではありません。シモンに計算や見込みはないのです。「主イエスさまが言ったから」だけが理由なのです。主イエスさまの言葉に信頼する。信仰は計算でなく信頼です。神の言葉に信頼していくことを主イエスさまとペトロの対話から教えられます。

神の言葉に驚く毎日を歩んでいく
8節 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

 驚くべき大漁を経験したシモン・ペトロ、彼は大漁を見てどう反応したでしょうか・よかったでも愉快になったのでもありません。ただ一言、「主よ、わたしから離れてください」(8節)と主イエスさまの足もとにひれ伏して畏れおののきました。「主よ」と主イエスさまが神であることに気づきます。「わたしは罪深い者なのです」(8節)と。シモン・ペテロは主イエス様のみ前で自分の罪深さに気づいたのです。主イエス様の真実の姿、み力を知り、そういう主イエスさまが自分のまえにいてくださるということを知ったときに自分の罪深さを悟ったのです。自分の無価値さ、惨めさを悟らざるを得ませんでした。私たちは、神さまのみ業、神さまの臨在にふれるときに、いかに自分が孤独で弱い存在であることに気づかされるのです。
9節 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
 「驚いた」とれた魚の多さに驚く以上に主イエスさまが語った「神の言葉」に驚いた彼らでした。人間の言葉、彼らはこの前での夜互いに言葉を交わしながらどこにいったら網にかかるのだろうと話していたと思います。私たちは多くの言葉を語るけどどうなのでしょうか。私たち教会は神の言葉を聞きたいと願います。毎日が神の言葉に驚き、感動する日々を過ごしたいと願うのです。