礼拝メッセージ(2020年5月24日)

『 ほかの町にも神の福音を 』  ルカによる福音書 4章:42~44節  林健一 牧師

イエスさまをしきりに引き止める人々
 42節から44節のところでは31節からはじまったカファルナウムでの主イエスさまの記事が締めくくられています。まとめの箇所です。ここでルカはあらためて主イエスさまが「神の国の福音を告げ知らせるために」「遣わされた」使徒であること、地上に来られた目的について語っています。主イエスさまのもとには大勢の病人、悪霊に取りつかれた人たちが癒しと解放を求めてきました。42節以下には、翌朝のことが語られています。主イエスさまは人里離れた所へ出て行かれた。「群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた」(42節)とあります。癒しのみ業は一晩中かかり、なお多くの人々が癒しを求めていたのです。しかし主イエスさまは、なお癒しを求める人々がいるのに、彼らを離れて行かれます。

イエスさまが地上に来られた目的とは?
 主イエスさまがこの地上に来られたことの目的は癒しをすることではないのです。その目的とは何か。それが43節の主イエスさまのお言葉に示されています。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ」。「神の国の福音を告げ知らせ」ることこそ、父なる神さまが主イエスさまをお遣わしになった目的です。福音、それは4章18、19節に語られていたように、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる言葉です。その実現のために、主イエスさまは十字架の死へと向かうご生涯を歩んでいかれるのです。主イエスさまを引き止めたカファルナウムの人々の思いは、この神の国の福音ではなく、ただ自分たちの望む癒しのみ業のみに向けられています。それは言ってみれば、礼拝において主イエスさまの十字架の福音を聞くことなしに、ただ自分の悩みや苦しみの解決のみを求めているようなものです。

私たちが本当に求めなければならぬものとは?
 私たちが求めるべきは、十字架の死と復活に至る主イエスさまのご生涯によって実現した福音が、私たちのそれぞれの具体的な生活の中で実現すること、主イエスさまがこの私に手を置いて下さることによって与えられる具体的な解放なのです。つまり、自分が求める救いの手段として主イエスさまを利用するのではなく、主イエスさまが自分に与えて下さる具体的な救いを求めていくことが大切なのです。この信仰に生きる時に私たちは、主イエスさまが「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない」とおっしゃっていることを理解することができるようになります。主イエスさまは福音による解放を、私の知らない他の人々、他の町の、他の国の人々にも与えようとしておられるのだということを知り、その主のみ業に仕えていくことができるようになるのです。

ほかの町にも神の福音を
 主イエスさまはこのあと「ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」(44節)。当時のユダヤは一つではありませんでした。それぞれの領主が治めていました。言語も違っていました。主イエスさまは苦労しながら四つの言語を習得して宣教されたことが新約学ではわかっているということです。主イエスさまの姿勢、それはパウロが伝道の際Ⅰコリントの9章19~23節で語っている「ユダヤ人にはユダヤ人のように…すべての人に対しては、すべての人のようになった。共に福音にあずかるためである。」これは言語や文化だけでなく私たちの心の垣根のことも指しているのです。自分の今までの在り方から変わろうとする姿勢を主イエスさまとパウロに倣うことができます。この礼拝から遣わされていくそれぞれの週日の日々において、主イエスさまをお迎えして、主イエスさまと共にそれぞれの具体的な日常を歩み、主イエスさまが私たち一人一人に手を置いて祝福し、聖霊を注ぎ、神の国の福音によって生かし、その福音を証しする者として下さる、そのみ業を体験していきたいのです。