礼拝メッセージ(2020年6月7日)

『 人間をとる漁師になる 』  ルカによる福音書 5章:10~11節  林健一 牧師

「恐れることはない」
 先週、シモンたちが主イエスさまのお言葉どおりに沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をすると網が破れそうになるほどの大漁を経験した彼らでした。主イエスさまが語られた「神の言葉」に驚いたシモンはじめゼベダイの子のヤコブ、ヨハネでした。「神の言葉」に驚き、恐れるシモン・ペトロは主イエスさまの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」(8節)。と告白するのです。「足もとにひれ伏す」動作は神さまを礼拝するときの姿勢でした。「主よ、わたしから離れてください」ペトロは本能的に神さまと出会った、そう感じたのでしょう。彼は自分の罪を認識しました。人間は神さまに出会うなら自らの罪深さを知るようになるのです。そして神さまを恐れるのです。 神さまを畏れ自分は罪深い者だと告白したシモンに、イエスさまは「恐れることはない」(10節)と言われました。ルカは繰り返し、神さまへの畏れを抱く人たちに「恐れることはない」と語ってきました。恐れて私から離れる必要はない、恐れないで私と共にいなさい、と言われるのです。このことは、自分の罪を告白したシモンに、イエスさまが罪の赦しを告げられたということです。私たちは繰り返し神さまの「恐れるな」とのお言葉を聞いていきたいと思います。

「あなたは人間をとる漁師になる」
 もう私たちは神さまを恐れる必要はないのです。「恐れるな、あなたはわたしに愛されている」と父なる神さまは私たち一人一人にそう語られます。さらに主イエスさまはシモンに「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)と言われました。マタイ、マルコでも主イエスさまは弟子たちに同じ言葉をかけられます。がルカではシモンに対して「あなたは」というふうに一対一の関係で召命の出来事が記されているのです。ルカはシモンが主イエスさまに「あなたは」という出来事をとおして私たちも主イエスさまに一対一の関係で弟子として招かれていることを訴えているのだと思います。「あなたは人間をとる漁師になる」は、「人間たちをとって生かす者になる」となるそうです。マタイやマルコ福音書と違って、ここではルカ福音書は「漁師」という言葉を使っていません。ルカ福音書が使っている言葉は、魚を「生け捕りにする」という意味で使われる言葉です。「ゾーグレオー」ただ「生かしておく」という消極的なものでなく「リバイブさせる」「生き返らせる」「生気を与える」という積極的な意味を持っています。主イエスさまは後にシモンたちは人を集めるばかりでなく、その集めた人が「神の言葉」によって生気を取り戻すというか、本当に生きることができるものになる、そういう光栄ある役割を担うようになると言っています。弟子になるということは神さまのみ心を生きる者とさせられ者となるということだと教えられるのです。

「イエスさまがそうしてくださる」
 聖書教育の聖書日課の6月5日の箇所ローマ15章1~6節のみ言葉が心に留まりました。
『わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。』主イエスさまが言われた「人間をとる漁師になる」と罪ゆるされた者として、救われた者としての新しい生き方が示されているように思うのです。私たちは努力してもそういう生き方、そういう者には到底なれないことをわかっています。主イエスさまがそうしてくださると宣言してくださっています。主イエスさまがそうなると約束してくださるのです。その主イエスさまにシモン・ペトロたちはついていきました。「すべてを捨てて」(11節)ペトロが主イエスさまについていったように私たちも主イエスさまについていくときに「人間をとる漁師になる」ことができるのです。主イエスさまにつながっていく(ヨハネ15:4)ときに私たちはすべてを成し遂げることができるようになるのです。