礼拝メッセージ(2022年1月2日)
『 キリストのもたらす分裂 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 12章:49節~53節
12章 49節:「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
12章 50節:しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
12章 51節:あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
12章 52節:今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
12章 53節:父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」
ルカによる福音書 12章:49節~53節(新共同訳)
今日のイエスさまの言葉は、私たちを戸惑せるようなことが語られています。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」とイエスさまは言われました。さらに、「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂(分けていく)だ」と語られます。これらの言葉は、私たちが持っているイエスさまのイメージとは、ずいぶんかけ離れた言葉のように聞こえます。
聖書では、火はいろいろなところで出てきます。「火」というのは焼き尽くす、神さまの審判を表します。しかし、ここではイエスさまは麦を集めて、殻を火で焼き払われる。ただ単に焼き尽くすというよりも、精錬の火として捉えたほうがいいでしょう。火によって不純物を取り除く、「分裂」分けていくことの表れなのではないかと思います。
「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」「終わる」という言葉は「それが成し遂げられるまでは」という意味です。「苦しむ」という言葉は苦しむというより、「専念している」という意味なのです。神を信じない、罪人である私たちが滅びることを善しとされず、何とか救おうとされる、達成するまで専念しているのです。
イエスさまは、平和ではなく分裂をもたらすために来たとおっしゃっています。神の火によって歩もうとする時に私たちと周囲の人々との間にも起ってきます。イエスさまが投ずる火はそういう意味で、私たちの間に平和ではなく、分裂を、対立を引き起こすのです。人間が燃え立たせる火どうしの対立は、戦争や殺戮を引き起こし、双方を傷つけ、殺すことで終り、憎しみが憎しみを増幅させていくという、何の希望も与えない悲惨な対立です。しかしだからこそ私たちは、イエスさまが投じて下さる火を、私たちを焼き滅ぼすと同時に新しく生かして下さる火を祈り求め、この火のもとにしっかりと留まり、この火によって新しくされ、イエスさまが私たちのために十字架にかかって死んで下さることによって示して下さった愛に生きる者となりたいのです。