礼拝メッセージ(2022年1月23日)
『 来年は実がなるかも 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 13章:6節~9節
13章 06節:そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。
13章 07節:そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』
13章 08節:園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
13章 09節:そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
ルカによる福音書 13章:6節~9節(新共同訳)
先週に引き続きイエスさまは一つのたとえ話をお語りになられます。それはぶどう園に植えられた一本のいちじくの木の話です。このいちじくの木が、植えられてからもう3年になるけれども、実を実らせたことがない。ぶどう園の持ち主は、7節にあるように「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている」のです。しかし「見つけたためしがない」。ここには、この主人が、いちじくの木の実りを期待していることが示されています。
このいちじくの木の実り、それはイエスさまが人々に求めておられる悔い改めを象徴しています。この福音書の3章8節には、洗礼者ヨハネが人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ」と語った言葉が記されていました。しかしこのいちじくの木は、三年待ったけれども一度も実を実らせていない。それは、なかなか悔い改めようとしない頑な私たち人間の姿です。そのようないちじくの木に対して主人は怒り、「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。ここに、悔い改めようとしない私たちに対する神さまの怒りと裁きが語られています。
しかしここには「園丁」が登場します。園丁は、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言っています。このいちじくが実を実らせるように、一生懸命世話をしてくれるのです。そのようにして、私たちが実を実らせるように、つまり、悔い改めて神さまのもとに立ち帰るように、道を開いて下さっているのです。このたとえ話は、神さまが、私たちの悔い改めを、忍耐して待っていて下さるお姿を語っていると言うことができます。
悔い改めそのものは、神さまこそ自分の主人であることを認め、その神さまとしっかりと向き合うことです。それは決して簡単なことではありません。私たちは、神さまと向き合うのではなく、自分のことばかりを見つめています。そのような私たちのために主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦して下さる神さまの恵みが示されました。主イエスのこの恵みに背中を押されて、私たちは悔い改めることができるのです。自分自身から目を離し、神さまの方に顔を向けていくことができるのです。