礼拝メッセージ(2022年1月30日)
『 サタンの束縛から解く 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 13章:10節~17節
13章 10節:安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
13章 11節:そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
13章 12節:イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13章 13節:その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
13章 14節:ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
13章 15節:しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
13章 16節:この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
13章 17節:こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
ルカによる福音書 13章:10節~17節(新共同訳)
福音書を読んでいると、イエス・キリストの生き方に目が注がれます。それと同時に、ちょうど鏡に自分の姿を映すように、自分自身にも目が向かいます。聖書を読むということは、結局のところ、自分の姿、それも神の御心とはかけ離れた自分の姿に気がつくことなのだと思います。きょう取り上げる聖書の個所からもまた、イエス・キリストというお方とわたしたちの現実の姿とを学んでいきましょう。
場面はある安息日の会堂での出来事です。そこには礼拝を守る大勢の人々とともに、十八年間も病に苦しみ、腰が曲がったままの女性がいました。ただ、一つのことをきっかけに、会堂に集まっていた人々のうちの、ある者たちの心が明るみに出されます。きっかけになった出来事は、イエス様がこの女性を安息日に会堂でお癒しになったということでした。会堂長はイエス様が安息日に病気を癒されたことに腹を立てたのです。十八年も病にありながら、共に礼拝を守り続けてきたこの女性が癒されたという喜びよりも先に、怒りが会堂長の心にこみあげてきたのです。
彼の目にはこの腰の曲がった女性が見えなかったわけではありません。同情もしていたと思います。また安息日でも命にかかわるような場合にはいやしてよい、助けてよいということも、十分に知っていた。しかし彼には、この女が、今すぐに、「安息日」であっても、いやされる必要のある存在とは見えなかったのです。
イエス様は「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」イエス様は私たちにあなたが彼女の立場だったらどうしてもらいたにのか?神の御心がどこにあるのかすでにわかっているのではないか?しかし、私たちの現実の心は神の御心に支配されることより、自分の中にある偽善に支配されることを選ぶのです。それがわれわれの罪であり、むしろ罪が「わたしの中に住んでいる」ことが明らかにされるのです。それが私たちをして愛の心を注ぎだすことを妨げているのです。