礼拝メッセージ(2022年10月16日)
『 祈りの家 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 19章:45節~46節
19章 45節:それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
19章 46節:彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
ルカによる福音書 19章:45節~46節(新共同訳)
主イエスさまがエルサレム神殿の境内で商売をしていた人々を追い出したという話です。「宮清め」と呼ばれる、怒りに満ちた乱暴な主イエスさまのお姿がここには描かれています。神殿の境内で商売をしていた人々とは、両替人と鳩を売る者です。どうしてこういう人々が神殿の境内に店を出しているのでしょうか。神殿では、遠くから神殿へ巡礼に来る者たちの便宜を図って、両替商や犠牲の動物を売る商売人が置かれていました。これらの商売はどれも、神殿で神さまを礼拝する人々の便宜をはかるためになされていたことです。そういう店が神殿の境内に開かれていたのです。神殿での礼拝の便宜をはかるために商売をしていた人々を、主イエスさまは、マルコ福音書の記述によればその台をひっくり返すような乱暴なことをして追い出したのです。
主イエスさまはなぜそんなことをなさったのでしょうか。ルカ福音書は主イエスさまのお言葉をこのように記しています。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(46節)。「わたしの家は、祈りの家でなければならない」という言葉は、旧約聖書の箇所、イザヤ書第56章7節からの引用です。そこには「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあります。「わたし」というのは主なる神さまです。主なる神さまの家、つまり神殿は「祈りの家」と呼ばれ、人々が神さまに祈るための場でなければならない。それなのに、今やそれが商売のために利用され、「礼拝ビジネス」の場となってしまっている、主イエスさまはそのことに激しく怒ってあのような乱暴な振る舞いに及んだのです。
「わたしの家は、祈りの家でなければならない」という主イエスさまのみ言葉に込められているのは、私たちの礼拝は、また信仰は、そのようなものであってはならない。私たちに語りかけておられる神さまのみ言葉をしっかり聞き、生きて働きかけておられる神さまときちんと向き合い、神さまとのそういう正面からの交わり、応答の関係をこそ求めていくものでなければならない、ということです。祈りが形式的なものとなり、本当に神さまと向き合い、真剣にみ言葉を求め、そのみ言葉に従って生きようとしないそのような礼拝は、主イエスさまが最もお嫌いになるものであり、怒りをもって退けようとなさるあり方なのです。ルカ福音書がこの宮清めの出来事において語ろうとしているのはこのことなのです。