礼拝メッセージ(2022年10月9日)
『 平和への道 』
  林健一 牧師 
ルカによる福音書 19章:41節~44節

19章 41節:エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、

19章 42節:言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。

19章 43節:やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、

19章 44節:お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」

ルカによる福音書 19章:41節~44節(新共同訳)

 本日お読みした41~44節は、ルカ福音書だけが記している記事です。イエスさまが、エルサレムのために泣かれたというのです。福音書にイエスさまが涙を流されたと伝える箇所は二つありますが、今日の箇所はその一つで、イエスさまのこの時の感情の激しさ、溢れる思いというのを現しています。なぜ、イエスさまは泣かれたのでしょうか。


42節 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。…
 エルサレムに象徴される、ユダヤの民、神さまの契約の民、イスラエル人たちが、平和のことを知っていない、という意味です。このエルサレムという名前自体、「神(エル)の平和(シャローム)」という意味があります。神の平和、という都なのに、神の平和を知らない。そこに、彼らの不信仰が現れています。見たところエルサレムは、ローマでも屈指の美しさと言われる神殿があり、丁度「過越の祭」の巡礼者たちが集まって、賑やかな都でした。弟子たちの心も浮かれ、都を見て、興奮は頂点に達していた筈です。しかし、イエスさまはその外見上の賑わいや逞しい建造物を見ながらも、その信仰の根本的な問題を見抜いて、その都を目にしながら、悲しみや痛ましさで堪らなくなってしまったのです。


44節 それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。
 訪れの時、とはルカが何度も使ってきた言葉で、イエスさまのお生まれを通して証しされた、神さまの訪問、顧みのことです。イエスさまが、失われた状態にあった私たちを訪ねて来てくださり、捜して救い出し、神さまによって造られた本来の状態に回復してくださることに、私たちの平和があるのです。しかしイエスさまの言葉も愛も、平和の恵みも理解できず、頑固になり、思い上がって、イエスさまを叩き殺さんばかりの憎しみで十字架に殺そうとしています。自分たちのやり方、豊かさ、力に拠り頼んで、神さまの訪れにも心を閉ざしている。その事をイエスさま悲しまれているのです。でも、イエスさまは、怒って冷淡に突き放してしまうのではなく、泣かれました。なお熱い情熱、溢れる思いをもっておられます。繰り返しますが、それはエルサレムの町そのものではなく、そこに象徴される人々への愛であり、憐れみです。そして、その愛のゆえに十字架に掛かろうとされているのです。