礼拝メッセージ(2022年3月20日)
『 イエスの弟子であるとは 』
 林健一 牧師 
ルカによる福音書 14章:25節~35節

14章 25節:大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

14章 26節:「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

14章 27節:自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

14章 28節:あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

14章 29節:そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、

14章 30節:『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

14章 31節:また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

14章 32節:もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

14章 33節:だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

14章 34節:「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。

14章 35節:畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

ルカによる福音書 14章:25節~35節(新共同訳)

 イエスさまの後におおぜいの群衆がついて来ました。するとイエスさまが振り向いて、群衆に向かっておっしゃったというのが、今日の出来事です。そこで言われたのは、見出しに書かれていますように、イエスさまの弟子となる条件ということでした。イエスさまの回りには、いつも群衆が集まっていました。その「群衆」と「弟子」とは、いったいどう違うのでしょうか?ここで言われている「弟子」という言葉は、ギリシャ語では「マセーテース」という言葉で、日本語に訳すと「学ぶ者」という意味があります。イエスの弟子ということは、イエスさまに学ぼうとする者ということになります。

 イエスさまは今日の個所で、イエスさまの弟子となるための3つの条件を示しておられます。一つ目は、26節です。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」イエスさまに従って行こうとするときに、仮に父母や、妻や子どもが反対した時に、その反対を振り切ってついていくのでなければ、イエスさまを信じることにはならない、ということです。

 2番目は、27節です。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」十字架は、当時の人々にとっては忌むべき死刑台でした。死刑の中でも最も残酷で屈辱的な死刑の方法でした。そしてイエスさまご自身が、その十字架へ向かって歩んでいるわけです。ここでは「自分の十字架を背負って」とありますから、十字架に見られるような苦しみ、辱めもいとわないでイエスさまについて来なさい、ということでしょう。

 3番目は33節です。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」自分の持ち物で生きるのではなく、神の与える物、イエスさまの与えて下さるもので生きる。神さまが自分を生かしてくださる。それを信じるということです。イエスさまにゆだねてついて来い、ということです。そして「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。イエスさまは、押し売りをされません。無理強いをされていません。「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃって、私たちが聞く耳を持つまで待ち、招き続けておられます。その招きに応える者でありたいと願います。