礼拝メッセージ(2022年4月10日)
『 十字架上での悔い改め 』
 林健一 牧師 
ルカによる福音書 23章:32節~43節

23章 32節:ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。

23章 33節:「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。

23章 34節:〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。

23章 35節:民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

23章 36節:兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、

23章 37節:言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」

23章 38節:イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

23章 39節:十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」

23章 40節:すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。

23章 41節:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

23章 42節:そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。

23章 43節:するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

ルカによる福音書 23章:32節~43節(新共同訳)

 現代社会に生きる私たちは自分の顔がどんな顔だかよく知っています。しかしイエスさまの時代は鏡を個々に持っていたわけではありません。自分がいったいどんな顔をしているのか生涯わからずに過ごした人もいるかもしれません。相手をとおして自分という存在を知るように神さまは私たち人間を創造されたのですね。人間は向き合う存在として生きていく。どういう人たちと私たちは向き合って生きてきたのか?イエスさまの両隣につけられた二人の犯罪人、彼らは人生の最後に自分をどう見たのでしょうか。

 イエスさまが十字架につけられたゴルゴタの丘には、3本の十字架が立っていました。イエスさまの十字架が真ん中で、その左右にも犯罪人が十字架につけられていました。この犯罪人は、マタイによる福音書によれば「強盗」(マタ27:38)であったと書かれています。その二人の強盗のうち一人は人々と同じようにイエスさまをののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(39)と。しかしもう一人の強盗・犯罪人は違いました。彼がイエスさまに言った言葉が40~42節に記されています。

 「お前は神をも恐れないのか」(40)と。自分という人間よりも、自分の上に神さまがおられるということを認める。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」(40)。聖書では、自分の罪を自覚していることを悔い改め、と言います。聖書で言う悔い改めとは、「二度といたしません」と言って誓うことではありません。自分が罪人であることを認めることです。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42)と言うのです。そう言えるようになったのは彼がイエスさまと向き合ったからではないでしょうか。

 十字架につけられるまでどんな人と出会い、人生を送ってきたのでしょうか?いろんなことがあって悪の道に染まったのかもしれません。しかし罪は罪として彼は自覚しています。今や十字架にはり付けにされている。彼の人生はここで終わろうとしている。今さらどうしようもありません。あとは数時間後に死ぬ。誰を恨むでもない。ただイエスさまの方を向いたのです。彼に対して十字架上のイエスさまは救いを、しかも今日イエスさまと一緒に天国にいると宣言されています。これは「悔い改め」の尊さが極限まで強調されています。

 
 
 

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