礼拝メッセージ(2022年4月17日)
『 なぜ信じられないのか 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 24章:13節~27節
24章 13節:ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
24章 14節:この一切の出来事について話し合っていた。
24章 15節:話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
24章 16節:しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
24章 17節:イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
24章 18節:その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
24章 19節:イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
24章 20節:それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
24章 21節:わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
24章 22節:ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
24章 23節:遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24章 24節:仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
24章 25節:そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
24章 26節:メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
24章 27節:そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
ルカによる福音書 24章:13節~27節(新共同訳)
「ちょうどこの日」(13)イエスさまの死と埋葬が金曜日でした。そして3日目の日曜日の朝、イエスさまの葬られた墓に行った婦人たちは、墓が空になっていたのを見ました。現れた天の御使いから、イエスさまの復活を告げられたのです。その日のことです。復活のイエスさまが姿を現されます。
17節に「暗い顔をして(悲しそうな顔をして)」と書かれています。それは彼らの心の中をそのまま映し出していたことでしょう。イエスさまは十字架で処刑されて死んでしまわれた。すべては終わった。悲しくてつらい。しかしイエスさまがいなくなってしまった以上、いつまでも弟子たちの集まりの中にいても仕方がないわけです。イエスさまがいなくなった以上、もうこの集まりは解散するしかありません。
ところが、二人によみがえられたイエスさまが現れ一緒に歩き始められたというのです。ルカによる福音書では復活のイエスさまがはじめに登場する場面です。よみがえられたイエスさまが並んで歩き始められる。ところがこの二人はイエスさまであることが分からなかった。聖書には、「二人の目は遮られていて」「イエスだとは分からなかった(認めることができなかった)」と
イエスさまが言われました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 ルカはこのような質問を通してかえって本来知らなければならない事実(イエスさまの復活)を知らないでいるクレオパと彼の同行者を反対に叱責しているかのようのです。「はずではなかったのか」とは、聖書にそのことは預言されているではないか、ということです。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と嘆かれます。私たちのことも嘆かれることでしょう。この心の鈍さはゆっくりした心、遅い心を指摘する言葉です。本当に不信仰でなかなか信じないのが私たちです。しかし主は嘆かれつつも、この二人の弟子と共に歩んで聖書を説き明かされました。そのように、私たちについても嘆きつつも、聖書を熱心に説き明かしてくださるのです。