礼拝メッセージ(2022年4月24日)
『 生き返った息子 』
 林健一 牧師 
ルカによる福音書 15章:11節~32節

15章 11節:また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。

15章 12節:弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。

15章 13節:何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。

15章 14節:何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。

15章 15節:それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。

15章 16節:彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。

15章 17節:そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。

15章 18節:ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。

15章 19節:もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』

15章 20節:そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

15章 21節:息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』

15章 22節:しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。

15章 23節:それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

15章 24節:この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。

15章 25節:ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。

15章 26節:そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。

15章 27節:僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』

15章 28節:兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

15章 29節:しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

15章 30節:ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

15章 31節:すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。

15章 32節:だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

ルカによる福音書 15章:11節~32節(新共同訳)

 きょう取り上げるのは「放蕩息子のたとえ」と呼ばれる話です。もっとも話の中心は放蕩息子にあるのではありません。息子たちを迎え入れる父親の話です。「息子たち」とあえて言ったのは、父から離れていったのは、弟の方だけではないからです。兄息子も父の家にはいましたが、心は父親から離れているからです。先週はいなくなった一匹の羊を探す羊飼いのたとえ話と無くなった一枚銀貨を探す女のたとえ話を学びました。どちらも失われた罪人を慈しんで尋ね求める父なる神の姿を語ったものでした。きょうは同じテーマの三つ目のたとえ話です。いなくなったのは羊や銀貨ではなく人間です。そもそもこのようなたとえ話をされたのは、徴税人や罪人と呼ばれる人たちを迎え入れるイエスさまをファリサイ派の人々や律法学者たちが非難したからです。たとえ話に登場する弟は、ファリサイ派の人々が嫌う徴税人や罪人たちを表しています。父親は天の父なる神御自身です。

 父親は召使いたちみんなに言いました。
「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」

 この父親の言葉こそ、罪人を迎え入れる天の父なる神のお心を言い表しているのです。そして、その父なる神のお心をイエスさまはご自分の身を通してお示しになっていらっしゃるのです。イエスさまの教えを聴こうとして集まってきた徴税人や罪人たちを、天の父なる神はこのように迎え入れてくださっているのです。畑仕事から戻った兄息子は、家の中から聞こえる楽しげな音楽や踊りのざわめきを耳にして、心がすっかり冷たくなっていきます。この父親は自分の心を理解しない兄息子を、諭そうと心から優しい言葉をかけます。父なる神さまは文字通り神のもとを離れて行った罪人が再び戻ってくるのを喜んで迎えいれてくださいます。そればかりか神さまのそばにいるようで心が神さまから離れている者たちをも、ご自分のもとに戻ってくるようにご自分と心を通わせるようにとご自分から出てきて迎え入れてくださるのです。徴税人や罪人と呼ばれる者たちのようであれファリサイ派や律法学者たちのようであれいずれにしても父なる神さまから迷い出たものであることは間違いないのです。この迷い出てさ迷い歩くわたしたちをご自分の方から出てきて迎え入れてくださる神さまのお姿をイエス・キリストはこのたとえを通して示してくださっているのです。