礼拝メッセージ(2022年6月26日)
『 見たい!神の国 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 17章:22節~25節
17章 22節:それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。
17章 23節:『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。
17章 24節:稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。
17章 25節:しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。
ルカによる福音書 17章:22節~25節(新共同訳)
「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。(22)それは、主イエスさまのご支配が確立、完成し、誰の目にもそれが明らかになる日、ということです。ということはそれは「神の国が来る日」です。「あなたがたが、神の国の到来、完成を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかしそれを見ることはできないだろう」と主イエスさまはおっしゃったのです。主イエスさまが来られたことによって、神の国は既に実現しているのではなかったのでしょうか。弟子たちが、その到来を見たいと望むが見ることができない、とはどういうことなのでしょうか。
主イエスさまに従う弟子や信仰者にとって神の国は、主イエスさまにおいて既に実現していると共に、未だ完成していない、目に見える現実とはなっていないのです。この「既に」と「未だ」の間を生きることが、信仰をもってこの世を生きることです。この世の様々な悲惨な現実を前にして私たちは、神さまの、主イエスさまのご支配、その救いはいったいどこにあるのかと嘆き、神の国の実現を一目でも見たいと願います。そのような時を歩んでいる私たちに、主イエスさまがここで「気をつけるように」と言っておられる「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」(23)。
神の国の到来、完成を信じて待ち望みつつ歩むことが私たちの信仰です。しかしそれは、まさに雲をつかむような、希望とは言えないぐらいはるか遠くの希望を見つめて生きることではなくて、この地上で既に起ったこと、神さまの独り子であられる主イエスさまが罪にまみれたこの世に一人の人間として来て下さり、多くの苦しみを身に負って歩んで下さり、そして人々から排斥されて十字架にかけられ、処刑されたことをこそ見つめて生きることなのです。そのキリストを父なる神さまが復活させて下さったことを信じ、そして今や天に昇り父なる神の右に座しておられるキリストが、もう一度来て下さり、そのご支配を目に見える仕方で完成して下さることを信じて、そこに究極の希望を置いて生きることができるようになるのです。