礼拝メッセージ(2022年7月24日)
『 神に喜ばれる者 』
林健一 牧師
ルカによる福音書 18章:9節~14節
18章 09節:自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18章 10節:「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18章 11節:ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18章 12節:わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18章 13節:ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18章 14節:言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ルカによる福音書 18章:9節~14節(新共同訳)
本日は先週のやもめと不正な裁判官の続きの話です。今日、読んだ箇所「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえもルカによる福音書だけに記された話です。イエスさまはやもめと不正な裁判官のたとえをとおして神さまに信頼して正しい裁きを待ちなさい。信仰を持ち続けなさいと言われました。その流れでいくとファリサイ派の人と徴税人のたとえも神の国についての話です。「神の国に入れられる人の種類や範囲」を教える、そういう教えがこれから続きます。イエスさまはファリサイ派の人と徴税人の祈り、どちらが神さまに受け入れられたか?それは徴税人の祈りであったと言われます。
14節 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
神さまはどちらの祈りに耳をかたむけて義としてくださるのでしょうか?これは私たちにとっても大切な問いかけです。神さまが「義」とされる「祈り」というのがあるんですね。言いかえるならば神さまが喜ばれる祈り、喜ばれる人はどういう祈りをする人なのでしょうか。
13節 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
徴税人の祈る様子が描かれています。徴税人は神さまの前に罪人である自分をゆるしてくださいと祈ります。ここであえて詳しくは徴税人の祈りの姿勢を語ることはしません。今回大切なのは「罪人のわたしを憐れんでください」と愛をもって見てくださる神さまの視線を信頼するお任せするそしてお委ねすることが大切だということを知る必要があるのです。
9節 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
「自分は正しい人間だとうぬぼれて」「自分自身に説得する、説明して納得させる」という言葉にもなります。私たちは神さまにかわることなどできないのです。私たちを高くしてくださるも 低くされるのも神さまです。ですから自分自身に説得するなどと神さまとの関係を自ら否定する者でなく神さまのみ言葉にひざまずく、それこそ低くして恵みを受ける者となっていこうではありませんか。