礼拝メッセージ(2022年7月31日)
『 子供は神の国に入れるのか? 』
  林健一 牧師 
ルカによる福音書 18章:15節~17節

18章 15節:イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。

18章 16節:しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

18章 17節:はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

ルカによる福音書 18章:15節~17節(新共同訳)

 私たちはこの箇所を読むとき子供のようになることが大切だと思います。大人であっても子供のような謙虚な心をもって神さまの御前に出ること。私たちはイエスさまの言われたことをわかったように思うのです。しかしイエスさまは本当にそれだけあるいはそのことだけを言われたのでしょうか?ある牧師と会話の中で「今、多くの教会は若者がいないと言っているが、大事なことを忘れている。イエスさまが私たちの中にいることを忘れているのではないか」「私たちが教会を建てあげていくのではなくてイエスさまが自ら、ご自分の教会を建てていくことを脇に置いてしまっているのではないか」。わたしはその言葉にハッとさせられました。イエスさま不在の教会。イエスさまがいない教会形成。今の私の姿は今日の聖書に登場してくる弟子たちの姿と同じだということに気づかされます。イエスさまにとって善かれと思ってした行動がじつはイエスさまの思いとは遠く離れたものであったということ。弟子たちはイエスさまと共にいながらイエスさまの心がわかりませんでした。


 15節「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。」

 人々は乳飲み子までをもイエスさまのもとに連れてきた「触れていただくために」と書いてあります。口語訳では「さわっていただくために」となっています。「ほんとうに小さな赤ん坊までも」と原文ではそうなっています。子どもたちの親たちはイエスさまに自分の子どもたちを祝福していただくために連れてきたのです。「弟子たちは、これを見て叱った」口語訳ではたしなめた。他の訳では「厳しく叱った」「とがめた」とあります。どの言葉であったとしても弟子たちはイエスさまのもとに子供たちが来ることを快く思ってはいませんでした。

 16節「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。」

 反対にイエスさまは子供たちを呼び寄せるのです。弟子たちに厳しく咎められた子供たちや親たちはイエスさまが自ら招いてくださったことに戸惑いつつも喜びを感じたでしょう。そして喜んでイエスさまのもとへと行ったのです。弟子たちは神の国とはどういう国であるのかこの時点ではわかっていませんでした。この後イエスさまは十字架の受難の道へと進まれ弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げます。弟子たちはイエスさまを裏切ったことに苦しみ悲しみますが復活されたイエスさまに出会い受け入れられた。そのときにはじめてイエスさまの言われた言葉の真意を知ることができたのでした。