礼拝メッセージ(2023年2月5日)
『 いつも目を覚まして祈れ 』 林健一 牧師
ルカによる福音書 21章:34節~38節
21章 34節:「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
21章 35節:その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
21章 36節:しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
21章 37節:それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。
21章 38節:民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。
ルカによる福音書 21章:34節~38節(新共同訳)
人々を前にしたイエスさまの最後の教えは、世の終わりに備えるということでした。本日はその最後のところです。34節の「その日」という言葉が、終わりの日であり、キリストの再臨の日であり、最後の審判の時です。「人の子の前に立つことができるように」と言っておられますが、「人の子」とはイエスさまのことであり、この世の終わりに再び来られたキリストの前に立つことができるように、とおっしゃっているのです。それが最後の審判で、私たち一人一人が神の裁きを受ける時のことです。神の国に入れてもらえるのか、もらえないのか、決まるということになります。 そのためにどうしたら良いのか、最後の審判に備えるためにはどうしたら良いのか、ということが語られます。
しかしその終わりの時というのが、いつ来るのか分かりません。それは、私たちのこの地上の人生の終わりがいつ来るのか、全く分からないのと似ています。明日、終わりの日が来ても大丈夫でしょうか。いや、もしかしたら今来るかもしれません。今、来ても大丈夫でしょうか?34節を読むと、イエスさまは「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と、おっしゃっています。放縦といい深酒といい、生活の思い煩いといい、いずれも神さまに頼っていないところが共通しています。心が鈍くならないように、という警告です。心が鈍くなる、鈍感になる、それは、今申しましたこととの関係で言えば、神さまのみ言葉に対する感覚が鈍ることです。天地は滅びるが、神さまのみ言葉は決して滅びない、ということを見失い、神さまのみ言葉よりも天地の方が、つまりこの世の中で盤石に見えるものの方が滅びないもの、頼りがいのあるものであるように思ってしまうことです。
それに対してイエスさまは、「いつも目を覚まして祈りなさい」とおっしゃいます。深酒をして酩酊をして、問題が解決するのではないからです。思いわずらって問題が解決するわけではないからです。そうではなくて、心を神さまのほうに向けて、信仰の目を神に向けて、祈りなさい、とおっしゃるのです。そこに解決があるからです。いつもキリストに頼る、ということです。目を覚まして祈りなさいとありますが、祈っていることこそが、信仰において目を覚ましていることなのです。目を覚まして祈り、いつもイエスさまのみ前に立ちつつ生きることによってこそ私たちは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というみ言葉を信じて、苦しみの中でも身を起こして頭を上げ、主イエスの再臨による救いの完成を待ち望みつつ、忍耐して信仰の戦いを戦い抜いていくことができるのです。