礼拝メッセージ(2023年6月25日)
『 御子の権威 』
石井努 牧師
ヨハネによる福音書 5章:19節~30節
05章 19節:そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
05章 20節:父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
05章 21節:すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
05章 22節:また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
05章 23節:すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
05章 24節:はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
05章 25節:はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
05章 26節:父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
05章 27節:また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
05章 28節:驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
05章 29節:善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
05章 30節:わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
ヨハネによる福音書 5章:19節~30節(新共同訳)
今日の聖書箇所の最後のところで、30「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」と、おっしゃるのです。主イエスは、なぜこのように仰るのでしょうか。それは、父なる神と子である神イエス・キリストが、それぞれ別の力を持っているわけではないということを示しています。父なる神の力とイエス・キリストとして神の力が別々にあるのではないということです。父と子はこの世の親子のようにそれぞれが独立した、別人格なのではないと教えておられるのです。と言うことは、父なる神とその御子の持っておられる力は独立してはいないのです。父なる神の力はそのままイエス・キリストにおいて働くということです。父なる神という、別の力があるわけではないということです。
もう少し付け加えるならば、三位一体(the trinity/トリニティー)といわれるキリスト教の神学的な考え方は、父・子・聖霊という三人の神様が独立しておられるということではないのです。あくまでも、ただおひとりの神様の力の働き方が人間からみて違って見えるように働くということです。神は人間を救おうとしてご自分の分身をこの世に送った。主イエスは、神のもとに合体する代わりに聖霊という分身をわたしたちに与えた。太陽が太陽と光と温度によって認識されるように、神もひとつなのだという。御子の権威ということであれば、それはキリストの力は、そのまま父なる神の力であるから、そこに権威があるということになるのです。
たしかに裁きの権威を与えられた御子イエス様が来られました。しかし、わたしたちは、「今その時」を、生きる毎日を、緊張しながら歩むことはありません。そもそもなぜ御子は来られたのでしょうか。なぜ父なる神は御子をこの世界にお遣わしになったのでしょうか?「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と3章にあったように、父なる神はその愛のゆえに、イエス様を遣わされました。それは罪における死者を出そうとしたわけではないのです。「御子を信じる者が一人も滅びないように」することだったのです。
つまり御子は救うために来られたのです。天の父のご計画のもと、十字架におかかりになるために来られたのです。そして実際にイエス様を救い主と信じる者が一人も滅びないように十字架におかかりになりました。十字架は神の裁きです。イエス様がわたしたちの身代わりとして十字架にかかられた時、すでに神の裁きは終わったのです。ですから、イエス様をキリストと信じたわたしたちは、怯える必要はないのです。怯えることなく信じるのです。わたしたちを救うために来られた御子の権威を信じるのです。一度信じたからもういい、ということではありません。日々信じて生きていくのです。今この時、キリストを信じ、今この時、永遠の命の輝きを先取りして、生きていくのです。