礼拝メッセージ(2024年10月20日)「慰めを知り、祈り合う」 Ⅱコリント1:3~11 石井努牧師
3:コリントの信徒への手紙二/ 01章 03節
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
4:コリントの信徒への手紙二/ 01章 04節
神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。
5:コリントの信徒への手紙二/ 01章 05節
キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
6:コリントの信徒への手紙二/ 01章 06節
わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。
7:コリントの信徒への手紙二/ 01章 07節
あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。
8:コリントの信徒への手紙二/ 01章 08節
兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。
9:コリントの信徒への手紙二/ 01章 09節
わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。
10:コリントの信徒への手紙二/ 01章 10節
神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。
11:コリントの信徒への手紙二/ 01章 11節
あなたがたも祈りで援助してください。そうすれば、多くの人のお陰でわたしたちに与えられた恵みについて、多くの人々がわたしたちのために感謝をささげてくれるようになるのです。
3わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。パウロは多くの手紙を残していますが、どの手紙にも、この「神を褒めたたえる」讃栄を忘れずに記しています。褒めたたえるその対象は、「わたしたちの主イエス・キリストの父なる神であります。」これは、主イエス・キリストをこの世に遣わし、わたしたちの罪を十字架に架けて贖ってくださった。「慈愛」と「慰め」の源の神であります。パウロが、神こそは褒めたたえられるべきお方であると言っているのは、その「慈愛」と「慰め」の故であったのです。もともと「慰め」と訳された語源は「強めること・支えること」を意味しています。そして、聖霊に対して呼ばれる「助け主」という名称と同じ言葉Gパラクレーシスを基にしているのです。気落ちして倒れそうになっている者を、下から支えてくださるのが「慰めの神」なのです。今数えるだけでも、この「慰め」という言葉は1節から7節までの間に9回も使われています。 4神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださる。真の慰めは、すべて主である神の元から来ます。
パウロは、聖書を通して主イエス・キリストからの啓示を受けて福音を知りました。けれどパウロは、使徒言行録などに記されているように、自分自身に降りかかった多くの苦難の経験から、知識ではなく実体験として「慰めの神」を確信したのでしょう。人間は、苦しみが自分を襲った時「なぜ?どうして?」という疑問が頭の中に広がって行きます。それを見守っている人々も、その原因を探ろうとします。このような苦難や苦しみにその人があっているのは、何か間違ったことをしたから。あるいは、なにかがその人に欠けているからに違いない。そう連想するのです。しかし、「それは違う」とパウロは言っているようです。人がそのような試練に遭う時には、そこに神のご意志が働いているのです。それは、わたしたちが神を知るためなのです。神の愛の深さと慰めを知るためなのです。
パウロはなぜこのような手紙を送ったのでしょう。わたしは、こう考えるのです。パウロは、「自分は単にコリントの人たちに上から目線で教えるだけを目的にしているだけでなく、同じ主の僕、同志として、助け合うことや、祈り合うことを通して共に成長していきたい。共に福音の伝道者として立っていきたいという想いがあったのではないでしょうか。」幾つもの苦しみを経験し、主の慰めを受けたからこそ、自分が派遣されたコリントに慰めを届ける奉仕者になることが出来ると、パウロは言うのです。パウロはコリントの人たちに「自分の様に苦しんでください」とは一言も告げてはいません。パウロが望んだのは祈って欲しいということだけなのです。わたしたちが苦しんでいた時に、どのようにみ言葉に励まされたか、どのようなみ言葉に慰めを受けたのか思い出してみてください。その経験があるから、わたしたちも今苦しんでおられる人に、それに耐えることが出来るように、慰めと励ましの言葉が掛けられるのです。