礼拝メッセージ(2024年10月6日)「復活の信仰」 Ⅰコリント15:12~22 石井努牧師

12:コリントの信徒への手紙一/ 15章 12節
キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。
13:コリントの信徒への手紙一/ 15章 13節
死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。
14:コリントの信徒への手紙一/ 15章 14節
そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
15:コリントの信徒への手紙一/ 15章 15節
更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。
16:コリントの信徒への手紙一/ 15章 16節
死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。
17:コリントの信徒への手紙一/ 15章 17節
そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
18:コリントの信徒への手紙一/ 15章 18節
そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。
19:コリントの信徒への手紙一/ 15章 19節
この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
20:コリントの信徒への手紙一/ 15章 20節
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
21:コリントの信徒への手紙一/ 15章 21節
死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
22:コリントの信徒への手紙一/ 15章 22節
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

 福音とは何か。というお話の中でパウロが挙げたのが、今日の御言葉の少し前3節4節です。「すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと。」これがパウロの最も大切にする、福音の中身、核心です。ところが復活の教えを曲げて解釈した人たちがいたのです。その人たちは、復活を否定しませんでしたが、「イエス様が復活したということは、その魂が天の国へ引き上げられ、そこで栄光を受けているということだ。」だから、私たちも復活すると言われるのは、死んだ体が甦るということではなく、私たちもまたイエス様の様に、天国で栄光を受けることを意味している。そのことの譬えとして復活と言ったのだ。こう主張する人たちが出てきたのです。


 それでは、この世における救いはどうなりますか。イエス様がマリアや弟子たちに見える形で現れたたことは、どうなりますか。私たちはどうですか?なんとなく納得してしまいますか?「別に死んだ体が甦らなくても、魂が、生き続けて天国に行ければいいんじゃないか」そんなふうに思いますか。パウロは言いました。12キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。これは事実ではないと言うのですか。パウロはきっぱりと否定します。キリストが聖書に書いてある通りに、実質が伴わずに、死者の中から復活しなかったのであれば、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。その信仰は意味がない。と言い切っています。


 復活のイエス様ご自身が使徒や弟子たち、またマリアたちに現れたことは、私たちにも大きな希望を与えてくださいました。イエス様が死に勝ってその手にある傷を見せながら弟子たちの前にお姿を見せられたことは、私たちにとって大きな希望となりました。わたしたちの生き方をパウロはローマの手紙(46:4)の中で示しています。わたしたちはバプテスマによってキリストと主に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、その体を義のための道具として神に献げるのです。なぜなら、罪は、もはや、わたしたちを支配することはないからです。わたしはこの復活信仰に生きたいと願っています。罪を知らされ、贖いの十字架によって救われた私たちは、その復活によって永遠の命を与えられました。この希望の道があることを、共に歩いて下さるお方がいることを、私たちも喜んでお伝えしようではありませんか。