礼拝メッセージ(2024年6月16日)「聖霊の住まい」 石井努 牧師

12:コリントの信徒への手紙一/ 06章 12節
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
13:コリントの信徒への手紙一/ 06章 13節
食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
14:コリントの信徒への手紙一/ 06章 14節
神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
15:コリントの信徒への手紙一/ 06章 15節
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
16:コリントの信徒への手紙一/ 06章 16節
娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体となる」と言われています。
17:コリントの信徒への手紙一/ 06章 17節
しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
18:コリントの信徒への手紙一/ 06章 18節
みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。
19:コリントの信徒への手紙一/ 06章 19節
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
20:コリントの信徒への手紙一/ 06章 20節
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

コリントの信徒への手紙一/ 06章 12節~06章 20節(新共同訳聖書)

          

 ここには、どうにも難解な文脈があります。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。どうも難解なのです。どう受け取ればよいのでしょうか。このみ言葉の前の箇所を見ますと、不道徳な人々との交際についての警告が記されていますし、また、争いごとが起きた時、その判断はこの世の価値観や正義感ではなく、キリストの真理によってしなければならないと教えています。なによりも、具体的に、「みだらな者、偶像を礼拝する者、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は決して神の国を受け継ぐことは出来ない。」と釘を刺しています。実際、当時の知識階層にはびこった肉体を軽んじて、魂の自由を謳歌するという考え方の影響を受けて、「わたしには、すべてのことが許されています。」と言って、何でも許されると、キリストの自由をはき違えた人たちが教会の中にいたのです。


 とくに、この手紙の宛先のコリントにおいて重大な危機を迎えてしまったのです。つまり、性的なものも含めて、みだらな行為が、キリストと教会という聖なる関係性にほころびを与えてしまう結果を招くことになるというのです。 19知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。キリストを信じる者が、キリストによって召し出された群れが与えられている恵みは、こうなのです。その者のからだは、そしてその者たち教会のからだは、神がその者の中に注がれた聖霊の宮なのであって、事実、神に属する器なのだということを忘れてはならないのです。 20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。


 そうした展開を見る時に、このみ言葉は、次のように読めないでしょうか。「主イエス・キリストがしてはいけないと言われていること以外、わたしパウロには、何でもする自由があります。けれど、その自由の中には、自分の為にならないこともあるのです。わたしたちは、住んでいる所の環境と、この時代という制約の中で生きています。というよりも、生かされています。それは、わたしたちが信じた者が、清められ聖とされた者が、与えられた場所において、この世の生活を営むその中で、自分が望むようにしっかりと生きることなのです。失敗したっていいんです。悔やんだっていいんです。ただ、わたしたちクリスチャンは、その生の全領域において主イエス・キリストの栄光を現すべき存在として派遣されているということを忘れてはいけません。大丈夫!主イエス・キリストが共に生きていてくださるのですから。