礼拝メッセージ(2024年6月2日)「人の物差し」 石井努 牧師
1:コリントの信徒への手紙一/ 04章 01節
コリントの信徒への手紙一/ 04章 01節 ~ 04章 06節(新共同訳聖書)
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
2:コリントの信徒への手紙一/ 04章 02節
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
3:コリントの信徒への手紙一/ 04章 03節
わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。
4:コリントの信徒への手紙一/ 04章 04節
自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。
5:コリントの信徒への手紙一/ 04章 05節
ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。
6:コリントの信徒への手紙一/ 04章 06節
兄弟たち、あなたがたのためを思い、わたし自身とアポロとに当てはめて、このように述べてきました。それは、あなたがたがわたしたちの例から、「書かれているもの以上に出ない」ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです。
わたしたちがよく知っている「ディアコニア」は「奉仕する」「仕える」という意味ですから、福音を宣べ伝える者の特徴は、まず「主のしもべ」でなくてはいけません。キリストの主権や御支配、そしてキリストの意思が中心に置かれなければならないのです。教会を指導する者は、キリストに仕える者であって、自分の思い通りに、また、自分の好みに合わせて支配するのではなく、ただキリストに聞いて、祈って、み旨を行うのです。
コリントの教会の指導者のように、自らの知識や知恵を誇って導いてはいけないのです。わたしたちも、人々の前で、聖書の知識やその中の一文をひねり出して自分を良く見せようにするなどは、神の前に、自分を裁くようなものなのです。なによりも必要なことは、主イエス・キリストに忠実な者になることなのです。なかなか、これが出来ないのです。難しいのです。人間って、自分の意見が通ると、それなりに満足感を得るものです。そんな時に、「わたしもそう思います」とか「言っていることは正しいと思いますよ」などと言われると、自分の中にある物差しのメモリは少しずつ太くなっていくのです。でも、そのくらいまでは、まだ信仰の確信の範疇なのかもしれません。
けれど、人間の欲は徐々に広がってゆくのです。それをサタンは見逃しません。神の基準、神の物差しはこの世の賢さによる物差しとはちがいます。神は賢い者を辱めるために、世の愚かな者を選び出し、強い者たちを辱めるために世の弱い者たちを選び出しました。それは、それはすべて肉なる者が神の前で誇らないためです。とパウロは言います。わたしたちが主イエス・キリストにあるのは、ひとえに神の御愛によるのです。しかし、これは強い者を低くし、弱い者をおだてるためではありません。神の基準は、十字架です。十字架は神の愚かさです。神は、この世では家畜小屋でその低さの中に生まれてくださいました。わたしたちが病にかかった時や失敗の中で悩まされた時など、強い者の論理では、どうすることも出来ません。「金があったらなあ」なんて、金や権力では買えないものばかりなのですから。この世の力や価値観などは偶像に過ぎないのです。
コリントの教会の指導者たちも、聖書から得た知識において、神に従っていると思っていたのでしょう。けれど、いつの間にかこの世の知識とこの世の知恵、この世の常識と呼ばれる不確かなものの奴隷になってしまうのです。注意しましょう、神に聞くことを毎日の糧としましょう。イエス・キリストは、神から来られ、わたしたちの知恵となり、義となり、贖いとなられました。主イエス・キリストには、愛と正しい知恵の基があるのです。わたしたちキリストを主と崇める者たちは、導きの中で備えてくださる愛と正しい知恵の物差しで、この世を量ることが出来るはずです。そして、そのキリストの知恵を自分自身の物差しに変えるのです。神の物差しで、物事を見て、神の時を希望に歩いて参りましょう。