礼拝メッセージ(2024年6月23日)「真の自由」 石井努 牧師

17:コリントの信徒への手紙一/ 07章 17節
おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
18:コリントの信徒への手紙一/ 07章 18節
割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
19:コリントの信徒への手紙一/ 07章 19節
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
20:コリントの信徒への手紙一/ 07章 20節
おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。
21:コリントの信徒への手紙一/ 07章 21節
召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
22:コリントの信徒への手紙一/ 07章 22節
というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
23:コリントの信徒への手紙一/ 07章 23節
あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。
24:コリントの信徒への手紙一/ 07章 24節
兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。

コリントの信徒への手紙一/ 07章 17節~07章 24節(新共同訳聖書)

           

 今日の箇所の初め17節には、17おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。と書かれています。パウロは、十字架の言葉とこの世の知恵が価値観も表現も真実も、全く違う意味を持つものであることを教えようと、この手紙を書いたのです。「召されて」ということは簡単に言えば「呼ばれて」あるいは「選ばれて」ということです。


 わたしたちクリスチャンは、このような話を聞いても、「召命なんて、自分には関係ない。」と思うかもしれません。召しの意味の中には、それまでと変わって特別な責任を負うような預言者とか宣教者になるような意味がありますが、一般的な意味の「召し」は、「神の恵みによって、主イエスをキリストと信じた者」という意味があります。それまで神を知らなかった人が、神に呼ばれ神を信じるようになる。これが「召し」なのです。コリント教会には、人間の基準からすれば、知恵のある者が多かったわけでもなく、権力やこの世に影響を及ぼすような身分の高い者が多くいたわけではなかった。教会はエクレーシアという言葉によって聖書には記されています。そしてその意味は「召された者の集まり」であります。パウロは、1章の2節でコリント教会を神の教会と表現しています。わたしたちも毎週礼拝の中で祈るではありませんか。「わたしたちをここに集めてくださって、ありがとうございます」って。わたしたちは、神によって呼び出されたのです。そういう者の集まりなのです。


  というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。 23あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。と、今日の言葉の最後を締めくくっています。わたしたちは主イエス・キリストの贖いの命によって買い取られたキリストの奴隷なのです。奴隷という言葉は後ろ向きの見方に聞こえますが、イエスをキリストと信じる者は、主に在って自由な者であるということです。主の奴隷とは、主に仕えることですから、言ってみればクリスチャンの最高のステータス。本当の身分と言えるでしょう。わたしたちは、この世におけるステータスにこだわってはいけないのです。人間の奴隷になってはいけない。本当の人間としての自立を求めているのです。音楽家が、人のたましいを揺り動かすほどの音楽を奏でるためには、やはり長い訓練を通して楽譜と楽器と音律に聞かなければならないでしょう。わたしたちクリスチャンもまた同じです。キリストの言葉に従って生き、その応答を繰り返して、成熟した「大人」となることが求められているのです。そのうえで、聖霊の働きを受けなければ、自由に「愛」を実行することはできないのです。わたしたちは、いまだ発展途上なのです。多くのことに惑わされないで、ひたすら主イエス・キリストを見上げて参りましょう。