礼拝メッセージ(2024年7月14日)「権利と自由」 石井努 牧師

          

1:コリントの信徒への手紙一/ 09章 01節
わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。
2:コリントの信徒への手紙一/ 09章 02節
他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。
3:コリントの信徒への手紙一/ 09章 03節
わたしを批判する人たちには、こう弁明します。
4:コリントの信徒への手紙一/ 09章 04節
わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。
5:コリントの信徒への手紙一/ 09章 05節
わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。
6:コリントの信徒への手紙一/ 09章 06節
あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。
7:コリントの信徒への手紙一/ 09章 07節
そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。
8:コリントの信徒への手紙一/ 09章 08節
わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。
9:コリントの信徒への手紙一/ 09章 09節
モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
10:コリントの信徒への手紙一/ 09章 10節
それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。
11:コリントの信徒への手紙一/ 09章 11節
わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
12:コリントの信徒への手紙一/ 09章 12節
他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
13:コリントの信徒への手紙一/ 09章 13節
あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。
14:コリントの信徒への手紙一/ 09章 14節
同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。

コリントの信徒への手紙一 09章 01節~ 09章 14節(新共同訳聖書)

     

 パウロが主張する権利を用いなかった理由は、少し先の23節で「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」とパウロ自身が語っている通りに、コリント教会から謝礼を受け取って、誇りを誰かに奪われるくらいなら、死んだ方がましだからです。」ということでした。この時のコリント教会内の分裂は、神のもとにない知識や自分たちの知恵を競い合い、また主張し合って起こったものでした。それは、自分たちが少しでも上に立ちたい。偉くなり指導権を握りたい。という欲望に端を発した、自己中心主義が支配していたのです。


 それでは、イエスさまはどうだったでしょう。パウロが最も大切なこととして人々に伝えたのは、「キリストが聖書に書いてあるとおりに、わたしたちの罪にために死んだこと。葬られたこと、また聖書に書いてあるとおりに三日目に復活したこと。ケファに現れ、ついで12人に現れたことです。」「イエス・キリストの聖霊によるバプテスマを受けたわたしたちは、その死に与かったのだ」ということ。それは、「イエス・キリストが天の父の栄光によって復活されたように、わたしたちも新しい命に生かされる希望を得るためだ。」ということでしょう。イエスさまは、家畜小屋でお生まれになられ、貧しい大工の子として育ち、神の子という権威や権利を自ら手放し、かえって人々に仕える道をお選びになりました。このようなイエスさまの生き方を思い起こして欲しかったのでしょう。パウロもイエスさまに倣って、肉を食べることを断念したり、謝礼を受け取ることをしなかったりと、自分に与えられた権利を放棄したのです。イエスさまのように生き方を選び、イエス様に倣って生活する事こそパウロの誇りだったのです。


 わたしたちが生きる現代、ある人は「権利」を主張し、ある人は「自由」を声高に叫ぶ時代です。そのどちらも大切にしなければならないことです。人権、教育権、労働権、生存権、いくらでもあげられるでしょう。しかし、どうもその言葉の前には「自分」「自分たち」という言葉が付いているようです。このことを想う時、使徒パウロの生き方は、わたしたちキリストを信じる者の生き方を改めて考えさせる問題提起なのかもしれません。自由とは自分の為だけにあることではありません。一人一人が自分の欲望のままに振舞ったなら、わたしたちの世界は弱肉強食の獣の世界になってしまうのです。まさに、今わたしたちの周りで起こり始めている世界のようです。自由。自由と叫ぶことが、返って自由を奪うことになるのではありませんか。その意味では日本における自由主義社会は経済格差を生むことになりました。持たない者は食べる事さえままならないことになっていますし、最低限の自由さえ奪われる始末です。しかし、わたしたちキリストを信じる者の自由は、自分にとっての自由だけでなく、他者の自由や権利をも考えて生きることなのでしょう。