礼拝メッセージ(2024年7月21日)「福音に生きる」 石井努 牧師

19:コリントの信徒への手紙一/ 09章 19節
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
20:コリントの信徒への手紙一/ 09章 20節
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。

21:コリントの信徒への手紙一/ 09章 21節
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
22:コリントの信徒への手紙一/ 09章 22節
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。
23:コリントの信徒への手紙一/ 09章 23節
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
24:コリントの信徒への手紙一/ 09章 24節
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
25:コリントの信徒への手紙一/ 09章 25節
競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
26:コリントの信徒への手紙一/ 09章 26節
だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
27:コリントの信徒への手紙一/ 09章 27節
むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

コリントの信徒への手紙一/ 09章 19節 ~ 09章 27節(新共同訳聖書)

             

 パウロは、新しい契約に生かされた者として、自分の進むべき道を、神に従って生きる道として捉えたからこそ「わたし自身、兄弟たち、肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」9:3と覚悟をもって召命に応えることを願っていたわけです。律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。これは異邦人のことのようですが、パウロは、この人たちといる時には、あからさまに議論を仕掛けることなどせずに、自身の信仰の姿に従って、彼らと対等に付き合うことでイエスキリストの福音を伝えようと、その輪の中に入って勧めたのです。


 そして、パウロはこの章の終わりにキリスト者の自由について話しています。24あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。当時コリントの人々がよく知っている2年に一度行われる競技会の種目に例えて、わたしたちクリスチャンがどう生きるべきなのかを説明していきます。わたしたちの身近な所では、先日競技生活からの引退を表明し話題になっている、フィギアスケートの宇野昌磨選手。彼は、幼稚園生の頃から始めたようですが、ステップが得意で回転ジャンプが大の苦手だったそうです。食べる事や体調の事、全てを節制して、練習に励んだのだそうです。転んでも転んでも飛び続け、走り続けました。その結果、彼は羽生結弦選手も飛べなかった4回転ジャンプにも成功し、世界選手権2連覇も達成しました。彼は、決して強制されて励んだのではありません。賞を獲得するという目的があるので、自ら進んで、自分を抑えて体を鍛え、練習に励んだのです。わたしたちクリスチャンも同じです。わたしたちは、再び戻ってこられると約束してくださった主イエス・キリストと出会うことが出来るという希望を持っています。それは確信です。


 「朽ちない冠」冠は栄誉のしるしですけれども、。競技会の勝者は栄誉のしるしとして冠を受けますが、クリスチャンもまた、神から栄誉の冠を受けるのです。競技会の勝者に与えられる松葉による冠はやがて朽ちていきますが、信者が受ける冠は、朽ちることはないのです。冠はペトロ(Ⅰの1:4)によれば、わたしたちのために天に用意されている「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」であると記されています。この世で名声や財産を築いても、それはなくなるものです。しかし、わたしたちクリスチャンは永遠の命と共に天に宝を蓄えているのです。イエス様が命に代えてくださった、その御国を見失わないように努めなければなりません。わたしたちは自分の中に潜んで頭をもたげている肉の欲望と闘わなければなりません。わたしたちが手にする自由とは、そのような戦いの中で勝ち取るものなのです。イエス様はパウロを通じて、そうわたしたちに教えています。皆さんは、どうされますか。与えられた教会で共に愛し合い支え合いながら、朽ちない冠を目指して歩もうではありませんか。