礼拝メッセージ(2024年7月7日)「知識と愛と」 石井努 牧師

             

1:コリントの信徒への手紙一/ 08章 01節
偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。
2:コリントの信徒への手紙一/ 08章 02節
自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。
3:コリントの信徒への手紙一/ 08章 03節
しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。
4:コリントの信徒への手紙一/ 08章 04節
そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。
5:コリントの信徒への手紙一/ 08章 05節
現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、
6:コリントの信徒への手紙一/ 08章 06節
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
7:コリントの信徒への手紙一/ 08章 07節
しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。
8:コリントの信徒への手紙一/ 08章 08節
わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。
9:コリントの信徒への手紙一/ 08章 09節
ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。
10:コリントの信徒への手紙一/ 08章 10節
知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。
11:コリントの信徒への手紙一/ 08章 11節
そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。
12:コリントの信徒への手紙一/ 08章 12節
このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。
13:コリントの信徒への手紙一/ 08章 13節
それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

コリントの信徒への手紙一 08章 01節~08章 13節(新共同訳聖書)

             

 パウロは、ある現実を知らせています。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」。一方でクリスチャンの中には、偶像に供えられるなどして汚染されたとされる肉を食べると偶像の汚れで食べた者自身が汚れるのではとひどく気になってしまうのです。このような、一種の良心の呵責に悩まされる人々に対して軽蔑する者たちが居たのです。彼らの言い分はこうでした。「信仰が弱いからそうなるのだ。」「偶像などというものはこの世に存在しない。この世に存在しないものに捧げた肉を食べたからと言って、どこが汚れるというのだ。キリストによって自由にされた自分たちにはその肉を食べる権利がある。」パウロ自身の判断も食べてよいという点では彼らと同じであったようです。しかし、パウロの想いの中には、偶像に捧げられた肉を食べるということは「偶像に捧げた者たちと同じところに立つことになるのではないか」と悩む側におられるクリスチャンの良心に、十分配慮すべきであるという強いものがあったのです。

 そして、そのことを軽蔑するおごり高ぶった人たちに忠告します。「あなたたちは、キリストの教えを十分理解しているように考えているようだけれど、知識が豊富になると人より自分が偉くなったように思い違いをするものです。」知識は愛あってこそのもので、愛と結びつかなくてはその力は発揮できないのです。教会がキリストの道を歩きだすためには知識以上のもの、「愛」が必要不可欠なものなのです。愛は自分の知識を誇ったり、それに満足したりしません。自分を愛するように隣人を愛そうとするものです。他の人が何に躓いているのか、何を悩んでいるのか、ではどうしたら助けることが出来るのかを考えます。勿論それは押しつけがましい、自分本位のものであってはならないでしょう。ここで申し上げている愛は「見返りを望まないアガペー、真実の愛のことです。

 主イエス・キリストはわたしたち一人一人のために死なれたのです。わたしたちの行為が信仰に恥じないものであったとしても、その人たちを躓かせることになるとしたら、その人に罪を犯し、同時にキリストに罪を犯すことになるのです。 信仰の強い人は、ある意味「自由人」かもしれません。けれど、信仰の弱い人。信仰の弱い人は、良心が束縛されて自由にふるまえません。強い人がその信仰のままに何もかも通そうとしたら、それはある時、弱い人を裁くことになりかねません。「わたしの信仰では、しごく当然」という態度や言葉が、弱い人を批判しているように映ってしまう。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり人間と同じ者になりました。わたしたちが何かをする時、信仰に支障がないと分かっていても、ただ自分の満足を得るためにしないように心がけましょう。