礼拝メッセージ(2024年8月4日)「いやしと救い」 ルカ17:11~19 小林政彦執事

11:ルカによる福音書/ 17章 11節
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
12:ルカによる福音書/ 17章 12節
ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
13:ルカによる福音書/ 17章 13節
声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
14:ルカによる福音書/ 17章 14節
イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15:ルカによる福音書/ 17章 15節
その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
16:ルカによる福音書/ 17章 16節
そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17:ルカによる福音書/ 17章 17節
そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
18:ルカによる福音書/ 17章 18節
この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
19:ルカによる福音書/ 17章 19節
それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

1・全てのことは途中(途上)
エルサレムに行くことだけが主の目的ではなかった。重い皮膚病を患っている10人と出会うために、サマリアとガリラヤの間を通られる。主は差別、偏見、思い込み、絶望の中にある者を解放し、救われる。10人は、体が清くなる前に、主のことばに信頼し、祭司たちのところに向かった。○○になれば、○○になってから、信じるのではない。信仰は確信から始められなくとも、胸騒ぎ、予感程度から始めればよい。その予感、胸騒ぎにも似たザワザワ感が私たちの背中を押す。主の御計画(救い)は、私たちの決断を待つ。そういう意味で、祭司の所へ向かう10人の決断は「バプテスマ」を想い起させる。しかし、バプテスマは信仰の入学式で卒業式ではない。真の救いはそこから始まる。


2・今、この時、人生の途上に意味がある。
人生の途上では、様々な事が次から次へと起こってくる。悲しみ、辛さ、痛み、不条理。一歩も前へ進めないような人生の途上で、主は出会ってくださる。遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げる10人(私たち)。主は、私たちのことを全てご存じのうえで、声をかけてくださる。だから、主にだったら愚痴でも恨み言でも、望みでも、言葉にならない思いも、すべて打ち明けたらいい。なぜなら、今、この時、人生の途上で、私たちに出会ってくださる為に、主は敢えてサマリアを通られるのだから。


3・10人は癒された。しかし、主のもとに帰ってきたのは1人だけだった。
主への応答は主のもとに帰ること(礼拝を意味する)。癒しと救いは違う。癒しを追い求めて、主の与えようとしている救いを無にしてはいないか。主のもとに帰ること。神との関係を大切にすること。主に感謝し、応答する人生を歩むこと。そのどれもが、主が与えようとする「救い」。真の平安。安らぎ。求める者に、主は癒しを与えてくださる。しかし、その恵みに感謝することを忘れたら「救い」は受け取ることが出来ない。「あなたはどこにいるのか」。私たちの応答を、主は待っておられる。「主よ、私はここにいます。」感謝して捧げる礼拝に、神は真の救いを用意される。


4・あなたの信仰があなたを救った。
私は、立派な信仰なんか持ち合わせてなんていません。そう言わなくともよい。信仰を豊かに育んでくださるのは、主なのだから。主に繋がり、信頼することで、私たちは救われる。何かしたから、何か出来るから、救われるのではない。ただ主のもとに帰ればよい。9人の者も、救いの道へ今も招かれている。気づいた時 、帰る場所は用意されている。信仰は「気づき」の出来事でもある。気づくのに遅すぎるということは決してない。気づいた今、主のもとに帰ればよい。これから始まる一週、主の優しい眼差しを感じながら、主を賛美し感謝をもって過ごしていきたい。主のもとに帰ってくる者に、主は祝福して、こう言われる。「あなたの信仰があなたを救った。さあ立ち上がって、行きなさい。」 アーメン