礼拝メッセージ(2024年9月1日)「すべての源」 Ⅰコリント11:2~16 石井努牧師

2:コリントの信徒への手紙一/ 11章 02節
あなたがたが、何かにつけわたしを思い出し、わたしがあなたがたに伝えたとおりに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。
3:コリントの信徒への手紙一/ 11章 03節
ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。
4:コリントの信徒への手紙一/ 11章 04節
男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。
5:コリントの信徒への手紙一/ 11章 05節
女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです。
6:コリントの信徒への手紙一/ 11章 06節
女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。
7:コリントの信徒への手紙一/ 11章 07節
男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。
8:コリントの信徒への手紙一/ 11章 08節
というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、
9:コリントの信徒への手紙一/ 11章 09節
男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。
10:コリントの信徒への手紙一/ 11章 10節
だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。
11:コリントの信徒への手紙一/ 11章 11節
いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。
12:コリントの信徒への手紙一/ 11章 12節
それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
13:コリントの信徒への手紙一/ 11章 13節
自分で判断しなさい。女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。
14:コリントの信徒への手紙一/ 11章 14-15節
男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。
15:コリントの信徒への手紙一/ 11章 16節
この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません。

          

 パウロは、この11章で「キリスト者の集会における秩序」に関する二つのことについて話をしています。  一つは、礼拝で女性が頭にかぶり物をすること(2-16節)について、そして二つ目が、主の晩餐(17-34節)について指示しています。今日は、その内の女性のかぶり物について、取り上げたいと思います。まず、初めに「かぶり物」と訳しているケファレイというギリシャ語は、文章の中でも使用している「頭」という外見を指す言葉でもありますし「かしら」や「権威」という意味もあります。その他にも「支配」「起源」「源」という意味もあるのです。


 コリント教会の礼拝で女性が頭にかぶり物をしていないということを聞いたパウロは、それについて、ここ今日の箇所ではいろいろな角度から答えています。この聖書箇所で大事な1節は3節で記された、「ここであなたがたに知っておいて欲しいのは、すべての男のかしらはキリスト、女のかしらは男、キリストのかしらは神であるということです。 」との文言であります。この文章の後半がその真実を詳しく解説しているからです。権威の順番は父なる神、御子、男性又は夫、そして女性又は妻です。キリスト者である女性が頭にかぶり物をつけるという行動は自分の夫に対する権威のもとにある事、従って神に対する従順を示していたのです。男が偉く、女や子供は数にも入れないこの時代。パウロの想いは、教会の秩序、礼拝における神への服従を念頭に置いて語られている。とはお思いになりませんか。パウロは、他の手紙でもそのことを告げています。例えばローマの信徒への手紙3章「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」8章の5,6節では「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」ですから、ここで言う「男のかしら」「女のかしら」「キリストのかしら」とは譬えであって、初めに紹介したケファレイの持つ意味、「支配」や「源」と気付かせたいのではないでしょうか。


 創世記、天地創造においても「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」こう記されているのですから。パウロ自身も「この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、わたしたちにも神の教会にもありません」と述べるように、現代の教会でも女性が頭にかぶり物をつける事が神の権威への従順のしるしとしてはみなしません。大事なのはその人の心の態度と権威への従順なのです。今日の御言葉の教えは、[いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、またすべてのものが神から出ているからです。自分で判断しなさい。]このように、礼拝や教会の全てが命の源である、御子を通した神にあることを、故に、男とか女などという区別を神はなさらない。こう教える事こそが、み言葉の本位であるように思います。


 わたしたちの内に働いてくださって、御心を行わせてくださるのは神です。すべてのものは、神から出ているのですから。