礼拝メッセージ(2024年9月15日)「一つの体」 Ⅰコリント12:12~26 石井努牧師

12:コリントの信徒への手紙一/ 12章 12節
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
13:コリントの信徒への手紙一/ 12章 13節
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
14:コリントの信徒への手紙一/ 12章 14節
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
15:コリントの信徒への手紙一/ 12章 15節
足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
16:コリントの信徒への手紙一/ 12章 16節
耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
17:コリントの信徒への手紙一/ 12章 17節
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
18:コリントの信徒への手紙一/ 12章 18節
そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
19:コリントの信徒への手紙一/ 12章 19節
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
20:コリントの信徒への手紙一/ 12章 20節
だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。
21:コリントの信徒への手紙一/ 12章 21節
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
22:コリントの信徒への手紙一/ 12章 22節
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
23:コリントの信徒への手紙一/ 12章 23節
わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
24:コリントの信徒への手紙一/ 12章 24節
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
25:コリントの信徒への手紙一/ 12章 25節
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
26:コリントの信徒への手紙一/ 12章 26節
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

 天地万物が創られた時、神がアダムの鼻から息吹を吹き入れたように、全てのものは神の息吹によって造られたのです。造られたもので同じものは一つとしてない。わたしたち人間の顔が一人一人みな違っているように、それぞれの指紋が個人を特定できるほど違うように、同じものを神はお創りにならなかった。神の下さる霊の賜物にはいろいろな種類がありますが、聖霊は同じです。奉仕にもいろいろな種類がありますが、お仕えする主は、同じ主であります。4賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 5務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 6働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 7一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。と書かれてある通りなのです。つまり何が言いたいのかと言いますと、わたしたち一人一人はかけがえのないキリストの体で、教会という体の一部分である。ということなのです。

  わたしたちは、いろいろな面で他人に妬みを覚えます。人の持つ富や名声、そして権力や才能に嫉妬するのです。しかし、実はそれぞれに神は異なった賜物を聖霊によって与えてくださっているのです。ある神学者は「人間が相応しい人格的な命に満たされて生きようとするのなら、利己的な自我を否定しなければならない。永遠の命を得ようとするなら、この世に倣って生きる自己中心な生活を手放さなければならない。その模範となるイエス様に仕えてこそ、神のもとに生きることになる。」と語っています。11節の「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。」と記されているみ言葉は、自分に相応しく与えられている賜物に目を向けなさい。それを見出し感謝して生きるのです。そう言っているように聞こえませんか。

  賜物は決してその人の能力ではありません。賜物は神から与えられたものですから、一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。と書かれてある通りなのです。賜物は、キリストの体を形成している互いを益とするために、そこにあるのです。たった一つの部分でも見捨てられるなら、それはイエスキリストがわたしたちのために命を捨ててくださったことが意味のないことになるのです。そして、わたしたちのために甦ることはなかったことになるのです。聖霊の賜物は、 誰かを特定することなく全ての人に与えられています。ですから、わたしたちは弱き者の中にこそお働きになられる神を忘れないようにしなければなりません。賜物は奉仕するための聖霊からの与かり物と言った方が良いかもしれません。もし一人一人が自分の能力と思い違いをしたら、争いのもとになりかねません。事実コリントにはそういう争いがあったわけです。ですから、賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。パウロはこのことを強調して話すのでしょう。聖霊は、わたしたちをみな結び合わせて、一体としてくださいました。わたしたちは、ただ一人のお方によって主イエス・キリストの体に結び合わされ、教会という体を形成しているのです。