礼拝メッセージ(2024年9月22日)「愛は賜物」 Ⅰコリント13:1~13 石井努牧師
1:コリントの信徒への手紙一/ 13章 01節
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
2:コリントの信徒への手紙一/ 13章 02節
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。
3:コリントの信徒への手紙一/ 13章 03節
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
4:コリントの信徒への手紙一/ 13章 04節
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
5:コリントの信徒への手紙一/ 13章 05節
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
6:コリントの信徒への手紙一/ 13章 06節
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
7:コリントの信徒への手紙一/ 13章 07節
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8:コリントの信徒への手紙一/ 13章 08節
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9:コリントの信徒への手紙一/ 13章 09節
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10:コリントの信徒への手紙一/ 13章 10節
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11:コリントの信徒への手紙一/ 13章 11節
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12:コリントの信徒への手紙一/ 13章 12節
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13:コリントの信徒への手紙一/ 13章 13節
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
今日の箇所ですが、小見出しにも「愛」とありますように、まず愛は神様の本質でありますが、そして神様から贈られた賜物であることも心に刻んでおきましょう。12章の終わりに、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい。」とありますように、愛は最高の賜物なのです。そして、この愛は、イエス様がわたしたちに遣わすとお約束してくださった聖霊による賜物なのです。ヨハネは第一の手紙の中で「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」と記しています。愛の本質は、神から出るものであって、聖霊によって頂くものなのです。他の賜物、例えば「異言」や「預言」、「知識」であっても、8節でパウロの言うように、やがて廃れます。また、富や物も、必要ないとは申しませんが、この世のものですし、いつか失われるものでしょう。まして、「わたしはお金のために生きる」あるいは「わたしは権力のために人生をかける」なんて本当に空しいですよね。
御言葉を少し振り返ってみましょう。1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。1節2節3節ですが、ここまでの主語は「わたし」パウロです。つまり「人間」と置き換えることも出来るでしょう。たとえ、人間が異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、人間は騒がしいどら、やかましいシンバル。 こんなふうに言い換えられるでしょう。ですから、愛が賜物であることを忘れないようにしましょう。わたしたちが愛したのではありません。神がわたしたちを愛してくださってイエス・キリストを下さったのです。ここに愛があります。
愛は、神から出たものですから、愛は消えることはないのです。わたしたちからイエス様を離れ、わたしたちが罪に陥り、サタンの誘惑に身を任せることはあるでしょう。けれど、愛はいつまでも絶えることはありません。主イエス・キリストにある愛は、いつまでも絶えることはないのです。わたしたちが、互いに愛し合えるように、わらしたち一人ひとりに向けられているのです。それゆえに、預言はすたれ、異言が止むことが起こるような虚しい時が訪れるような時があっても、わたしたちは感謝の気持ちを保つことが出来るのです。けれども、人間は弱いもので何かいやな事が起こると、与えられた愛までも自分の心で覆い隠してしまうのです。けれど、皆さん忘れないでください。愛はキリストご自身なのです。つまり、わたしたちは、愛をキリストの賜物として頂いているのです。