礼拝メッセージ(2024年9月29日)「平和の神」 Ⅰコリント14:20~33a 石井努牧師

20:コリントの信徒への手紙一/ 14章 20節
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。
21:コリントの信徒への手紙一/ 14章 21節
律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」
22:コリントの信徒への手紙一/ 14章 22節
このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていない者のためではなく、信じる者のためのしるしです。
23:コリントの信徒への手紙一/ 14章 23節
教会全体が一緒に集まり、皆が異言を語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入って来たら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか。
24:コリントの信徒への手紙一/ 14章 24節
反対に、皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、
25:コリントの信徒への手紙一/ 14章 25節
心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。
26:コリントの信徒への手紙一/ 14章 26節
兄弟たち、それではどうすればよいだろうか。あなたがたは集まったとき、それぞれ詩編の歌をうたい、教え、啓示を語り、異言を語り、それを解釈するのですが、すべてはあなたがたを造り上げるためにすべきです。
27:コリントの信徒への手紙一/ 14章 27節
異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
28:コリントの信徒への手紙一/ 14章 28節
解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
29:コリントの信徒への手紙一/ 14章 29節
預言する者の場合は、二人か三人が語り、他の者たちはそれを検討しなさい。
30:コリントの信徒への手紙一/ 14章 30節
座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。
31:コリントの信徒への手紙一/ 14章 31節
皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。
32:コリントの信徒への手紙一/ 14章 32節
預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。
33:コリントの信徒への手紙一/ 14章 33節a
神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。

 本当に主の愛を知った者は、自分本位ではなく十字架の言葉に忠実に、委ねられた教会の徳を高めるために生きる。そう教えようとしたのです。パウロはこの手紙の一章で「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」つまり、この世の知恵や論理を持ちいては、神を知ることは出来ないと言うのです。なぜなら、神の霊によってこそ、神のみ心、神の知恵は私たちに示されるからです。人を本当の信仰へと導くのは、主が遣わされた聖霊なのです。預言とは、「聖霊によって語られる神の啓示」を意味しています。14章の1節で述べるように愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めるのです。聖書によって示される神の啓示を預言の賜物として受けなさい。と勧めるのです。預言において大切なのは検討することです。この預言がはたして神からのものであるかどうかを、判断しなければいけません。預言は決して、すでに書かれている神のことば「聖書」と相反することはありません。わたしたちにはすでに、御言葉である聖書が与えられていますから、それを信仰の基盤として生活しなければいけません。


 さらにパウロは,座っている他の人に啓示が与えられたら、先に語りだしていた者は黙りなさい。 皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。 預言者に働きかける霊は、預言者の意に服するはずです。 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。と続けて勧めます。自分に預言が与えられて語っているとき、他の人が語り始めたら自分は黙っていなさい、とパウロは言っています。これも皆が、そのことばを理解して、徳が高められるようにするためです。まさに、祈祷会の時などはこれに該当するでしょう。神は、混乱の神ではなく、平和の神であることを礼拝の基盤としなければならないでしょう。「わたしには、そんな賜物を与えられていない」と言ってはなりません。主イエス・キリストを救い主と受け入れ、御言葉と賜物としての「祈り」をいただいたわたしたちは、皆が預言できるのであって、聖霊の助けによって、その賜物を与えられているのです。すべての人がみ言葉に学ぶことができ、すべての人がみ言葉の勧めを受けることができるのです。 


 神を世間の人たちに証しするのも神への礼拝です。毎週捧げる礼拝は、決して信徒だけのものではなく、世の中の人から注目される公共的なものだということを忘れてはいけません。別な角度で申し上げれば、はたから見ていて「わたしも行ってみたい」「あの人たちは。嬉しそう、楽しそう」と観られるものだと自覚することも、教会のあるべき姿であると言えましょう。わたしたちも、常に礼拝をより良いものにしたいと願う者ですが、今日のパウロの教えからも色々と学ぶべきことがあります。平和の神は、教会の神だけでなく、すべての人々を招く神なのです。神様に献げる、そして世の人々への証しとなるような礼拝を行っていくことができるように、神に祈りましょう。