礼拝メッセージ(2024年9月8日)「主の晩餐へ」 Ⅰコリント11:17~22 石井努牧師

16:コリントの信徒への手紙一/ 11章 17節
次のことを指示するにあたって、わたしはあなたがたをほめるわけにはいきません。あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いているからです。
17:コリントの信徒への手紙一/ 11章 18節
まず第一に、あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。
18:コリントの信徒への手紙一/ 11章 19節
あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。
19:コリントの信徒への手紙一/ 11章 20節
それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。
20:コリントの信徒への手紙一/ 11章 21節
なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。
21:コリントの信徒への手紙一/ 11章 22節
あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。わたしはあなたがたに何と言ったらよいのだろう。ほめることにしようか。この点については、ほめるわけにはいきません。

            

 皆さんご承知のように、コリント教会の中には様々なグループがありました。それぞれが与えられた賜物に従って奉仕をするような、わたしたちの教会で言えば女性会や壮年会。あるいは、様々な委員会。そういったグループではなく、「わたしは、パウロ派だ」とか「わたしはアポロ派だ」このように、自分の尊敬する人を指導者として担ぎ出して、教会の主導権を争う、ある意味、キリストの教えとは真逆なグループです。そこでパウロは、自分たち人間の中に英雄を据えようとするときに必ず争いが起こることを指摘します。なぜここに教会があるのか、パウロは言います。わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 24感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。このように主イエスを自分たちの中心とするように主の晩餐を制定したのです。


 わたしたちには、時に魂の中から湧き上がる帰省本能のように、帰るべき場所があります。わたしたちの中には、主の下に帰そうとする聖霊の叫びがあるのです。それは、わたしたちの背きのために十字架に掛かられ、裂かれ流された主イエスの血潮です。その血潮はイエス様をキリストと信じたその時から、わたしたちの中に脈々と流れているのです。この限りなく尊く、大きくて深い神の愛は、わたしたち全ての人に向けられているのです。そのことを主の晩餐式は思い起こさせてくださるのです。そこでパウロは、改めて正しい晩餐の在り方を思い出させようと試みています。


 今回の問題は、金持ちの教会員と、貧しい教会員との間で、こともあろうに主の晩餐を巡って起きてしまったのです。19節では 、あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。いつの時代でも人間が集まっていれば分派が起こり事は否めないとパウロも予想はしていたのですが、今回の問題は、もっと深刻です。いわば、本当に主イエスを信じているのか、信じていないのか。重要な問題です。  20節ではさらに付け加えて、20それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。と言っています。あなたがたは、主の晩餐のために集まっているというが、これでは主の晩餐になっていない。主がおられないではないか。皆さん、パウロは、このように𠮟責していると思いませんか。イエス様は、わたしたちの罪を十字架の死において、すべて赦してくださった。それが意味することは、誰一人神の愛に漏れる人はいない。ということです。だからこそ、「自分を愛するように、隣人を愛しなさい」と言われるのです。そのことを思わずしては、主の晩餐式を行う意味はありませんし、自分自身を罪に貶めるだけなのです。わたしたち、イエス様を救い主キリストと信じた者たちは、十字架の福音をひと時たりとも忘れてはいけません。