礼拝メッセージ(2025年4月27日)「小さな花も、神の体」コリントの信徒への手紙Ⅰ 12:12-22 小林大介 執事
近頃は予想もできないような、驚きのニュースをたくさん目にしている気がしています。最近一番目につくのが、トランプ関税!に関してです。誰がこのようなことが起きるのかと予想できたでしょう。今後、外国から輸入するものは高い関税のため買えなくなってしまうのでしょうか。この先どうなってゆくのか、だれにもはっきりとはわかりません。このように、時代とともに様々な事柄が移り変わってゆくものです。それは、コモンセンス、いわゆる一般常識というものも当てはまると思います。常識という言葉、辞書には何と載っているでしょうか。「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。」と記載されていました。普通の、当たり前の知識ということですね。話は変わりますが、みなさま、昨今騒がれているフジテレビの不祥事に関してご存知でしょうか。誰でも知っているアイドルグループ、SMAPのメンバーである中居正広さんが関わっていて、今では中居さんはメディアに出られないような状況になっています。フジテレビにもスポンサーがつかなくなり、CMも流すものがないため、ac ジャパンのCMが多く流れていると聞きました。かつてフジテレビといえば、国民的な人気を持ったテレビ局でしたし、中居正広さん、SMAPは当時の時代を象徴していたと言っても過言でないぐらいのスターだったと思います。それが当たり前の認識でした。しかし、時代が変わると常識も変わります。かつて当たり前とされていたことが、非常識であるとされる。逆に、非常識と思われたことが、今では平然として、当たり前のことと受け止められる事もあります。例えばビートルズ!ビートルズが初めて日本に来日したころ、1966年です。今からおよそ60年ほど前になりますが、当時はビートルズの歌は不良の聞く音楽と認識する大人が多く、たいていの親は子供がビートルズの音楽を聴くことをよく思わなかったそうです。驚きですね。今では教科書にビートルズが掲載されているぐらいなのに!良いこと悪いこと、いわゆる善悪の基準さえも時代によって変化してしまいます。この世に流されると、善悪の基準も曖昧になってしまいます。イエス様は、おっしゃいました。
「あなたがたは、この世にならってはなりません。むしろ、むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマの信徒への手紙12章2節/新共同訳)
わたしたちは、変わり続けるこの世に流されるのでなく、変わらない主の真理に立つように招かれているのです。また、イエス様はこうもおっしゃいました。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(マタイによる福音書24章35節)
この世界のすべてが変わり、また消え去る時が来たとしても、主の言葉だけは決して滅びることはありません。どれほど時代が揺れ動き、常識がたとえ覆されても、主の真理は永遠に変わることがありません。そして、その真理は、主の変わらぬ愛が私たちに注がれ続けていることを、語っています。
その永遠である主の愛の中で生かされている私たちですが、主の大きな視点から見ると、私たちは本当に小さく、儚い存在だと思います。SMAPが歌った「世界に一つだけの花」という歌はご存知でしょうか。僕はこの歌詞がとても好きで、皆さんに一部紹介したいと思います。
『小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから
No1にならなくてもいい
もともと特別な only one』
わたしたちは一人一人が小さな花であります。そして、それぞれが異なる様相、色を持ち、異なる特徴を持ちます。そして、他と比べる必要なく、優劣なんてものはなく、それぞれに与えられた命を生き、それぞれの花を咲かせることが大切なのです。聖書にもこんな場面があります。ヨハネ9章ですが、生まれつき目の見えない人がイエス様のもとに連れてこられた時、弟子たちは尋ねました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」そしてイエス様は、こう答えられたのです
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネによる福音書/ 09章 03節)
当時は、障害や弱さが罪を犯したことによる罰と捉えられていました。しかし、そうではありません。それは、主の御業が現れるための舞台なのです。今の社会も、「できること」「目立つこと」などを重視します。しかし、主はほかの誰とも違うあなたを愛しています。ナンバーワン、ではなく、オンリーワン、かけがえのない存在として、あなたを愛しておられます。
このことをさらに深く考えているのが、冒頭に読んでいただいた、パウロの記したコリントの信徒への手紙Ⅰの12章です。
「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ/ 12章 12節)
ここでパウロは、キリストをひとつの体に例えています。キリストという大きな体に、私たち一人一人が結ばれている。そして、こう続けます。
「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ/ 12章 13節)
信仰によって、私たちはひとつの体に結ばれました。そしてパウロは、はっきりとこう宣言します。
「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ/ 12章 27節)
このパウロの言葉は、私たち信仰共同体の在り方というものを端的に表現しています。つまり、キリストを頭(かしら)とする体に例えられたように、私たち一人一人がその体を構成する大切な部分です。つまり教会とは、単なる組織や団体、または建物ではありません。キリストによって結ばれた私たち、一人一人が集められてできた生きた体なのです。それがキリストの体であり、教会なのです。そして、パウロはこうも言っています。
「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ/ 12章 22節)
皆さんは、盲腸という臓器を知っていますか。かつては役に立たない、意味がない臓器と思われていました。しかし今では、腸内細菌のバランスを維持したり、免疫機能に関係したりと、健康を支えるために比較的重要な役割が盲腸にはあることが最近の研究でわかってきています。わたしたちもそれと同じです。目立たない存在、一見力のない、または能力のない存在であるかのように見えても、または、自分自身をそのように考えていても、教会という体の中では、それぞれがかけがいのない存在であり、それぞれに大切な働きや役割があるのです。
これからも時代はどんどん移り変わっていくでしょう。社会や文化、そして常識さえも変わり続けます。しかし、主の愛は決して変わることなく、主の言葉は決して滅びることはありません。そんな中で、あなたは「世界に一つだけの花」のように、あなただけの花を咲かせるようにと、主に招かれています。それは、キリストの体を形作る大切な一部としての役割でもあります。私たちの存在には意味があり、それぞれに神さまのご計画があります。教会は、主にあって結ばれた体として、一人ひとりが大切にされ、必要とされている場所です。変わりゆく世界の中で、変わらない主の愛と恵みに生かされていることを覚え、感謝をもって歩みましょう。
それぞれが自分の花を咲かせながら、互いに支え合い、キリストの生きた体なる教会として共に歩んでまいりましょう。