礼拝メッセージ(2026年1月25日)「神の言葉が実を結ぶ」マルコによる福音書4章1~9節

種まきのたとえ話
イエス様は色々なたとえ話を語られました。たとえ話はガリラヤの日常生活の事柄から語られたので、すぐにイメージできるものでした。そのたとえ話が福音書にいくつも書き残されていますが、それはイエス様ご自身が書き残したものではありません。それはたとえ話を聞いた人たちが覚えていたものです。ガリラヤの人たちや、イエス様の弟子たちが聞いたたとえ話が集められ、福音書に書き残されました。
今日の箇所にあった種まきのたとえもイエス様が語られたものです。当時の農夫たちは袋の中から取り出した種を畑にばらまき、その後、種を土にすき込んでいきました。ばらまかれた種の中には、道端に落ちたり、石だらけの土地に落ちたり、茨の中に落ちたりするものもあり、それらの種は実を結ぶまで育ちませんでした。一方、よく耕された畑に落ちた種は芽生え、育って実を結びました。
このたとえ話の意味は、4章13節以降で語られています。まかれた種は「神の御言葉」であり、種をまく人は御言葉を伝える人です。それは第一にイエス様のことですが、イエス様の御言葉を聞いてそれを伝える人のことも含めてよいでしょう。これに対して種をまかれる4通りの土地は御言葉を聞く人たちのことです。それはガリラヤの人たちのことであり、また私たちのことでもあります。
道端に落ちた種は、鳥に見つかって食べられてしまいます。それは御言葉を聞いても、サタンによって奪い去られてしまう私たちのことを指しています。石だらけの所に落ちた種は、すぐに芽を出しますが、しっかりと根を張ることができないので、日が昇ると枯れてしまいます。それは御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるけれど、苦しいことや難しい状況が起こるとつまずいてしまう私たちのことを指しています。茨の中に落ちた種は、芽を出しても茨に覆いふさがれるため、実を結ぶことができません。それは御言葉を聞いても、この世の思い煩いや富の誘惑などの欲望によって心がふさがれてしまう私たちのことを指しています。
その一方で、良い土地に落ちた種は、芽生え育って、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍の実を結びます。それは御言葉を聞いて受け入れた私たちのことを指しています。
聞く耳をもてない時
私はこれまでこのたとえ話を通して言われていることは、「良い土地のような人になりなさい」ということだと思ってきました。イエス様は「よく聞きなさい」と言ってたとえ話を語り始めておられますので、道端や石だらけや茨の土地のようであってはいけない、良い土地のようになることを目指さなければならない、と言われていると思ったのです。
もちろんイエス様は御言葉を聞くことを求めていましたし、御言葉を聞くことは大切です。ただこのたとえの後でイエス様は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言っておられます。「聞く耳のある者になりなさい」ではないのです。御言葉を聞く者は土地にたとえられていますが、種をまかれる土地が自分の力で良い土地に変わっていく、ということは語られていません。
それは御言葉を聞くということ――聞くことができるようになること――が、当たり前のことではないからなのかもしれません。一生懸命話したけれど伝わらなかったという経験があるでしょうか。イエス様もそんなことを何度も経験されました。多くの人に語り、弟子たちにはさらに詳しく話しましたが、それを理解されなかったり、忘れられたり、さらには反発されたりすることさえありました。
そしてそれは預言者たちも、また神様も経験してきたことです。4章12節にはイザヤ書から引用した言葉が語られています。見ても認めず、聞いても理解できない。それは神様の御業を見たり、預言の言葉を聞いたりした多くの人たちの反応でした。
この言葉は、神様が意図的に御言葉を理解できなくさせたり、受け入れないように操作したりした、ということではありません。聖書を読むと、神様が繰り返し語られたこと、忍耐をもって向き合ってこられたことがわかります。しかし、どれほど熱意を込めて語っても、それが聞かれず、受け入れられない、ということはあります。神様も、イエス様も、それはよくわかっておられたはずです。
聞かれないことは、語る側の努力の問題とは限りません。それはまた、聞く側の意志の問題とも限らないのだと思います。サタンが来て御言葉を奪い去られてしまうとわかっていても、それを防ぐ術がないときがあります。苦しいことや難しい状況の中で孤独だったなら、御言葉が根付くことは難しいでしょう。思い煩わず、誘惑からも解放されて生きたいと望んでも、この社会では難しい問題を作られたり、消費させるために誘惑しようとしたりすることがたくさんあります。
もちろん、御言葉を聞くことは大切であり、御言葉は聞かれることを求めています。イエス様は「よく聞きなさい」とおっしゃいますし、それを覚えて心に留めることを願っています。それでも「聞く耳のある者になりなさい」と言われないのは、命じられたら聞いて理解し、受け入れることができる、というわけではないからなのかもしれません。
聞く耳をもてる時
イエス様は、「聞く耳のある者は聞きなさい」、と言われました。つまり、全員がそうではないけれど、「聞く耳のある者」はいるのです。御言葉を聞き、それが自分の中に根を張り、育って実を結ぶ人はいるのです。御言葉を聞くことができる人がいるから、イエス様は語り続けました。
もう少し正確に言うと、それは「いつも御言葉を聞ける人」と「いつでも御言葉を聞けない人」がいる、ということではありません。4通りの土地は、4通りの人に分けられるということではなくて、私たちがそれらの状態になることがある、ということなのでしょう。私たちは誰もが聞く耳のあるときもあれば、それがないときもあるのです。
振り返ると、イエス様を信じ、クリスチャンとなった私たちには、御言葉を聞いた時がありました。でもそれ以前には、御言葉を聞けない時もありましたし、クリスチャンとなってからも、いつでも、どんな御言葉でも聞くことができたというわけではなかったでしょう。私たちの心を耕し、種を芽生えさせてくださった聖霊の働きがあり、たとえ聞けないときがあっても忍耐強く語り続けてくださった神様がいたからこそ、私たちは御言葉を聞くことができました。
旧約聖書のコヘレトの言葉には、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(3章1節)という言葉があります。それに倣えば、聞く時、聞かれる時があるということなのでしょう。私たちは今、目の前にあることに捕らわれてしまいがちです。そうなると、「今、聞くことができないといけない」、「今、聞けなければダメだ」と考えて、評価してしまうかもしれません。
けれどイエス様は、聞く耳のある人だけにではなく、今は聞く耳がない人にも語り続けられました。何度語っても、全然理解できなかった弟子たちにも、語り続けられました。今ここで聞くことができなくても、理解したり受け入れたりすることができなくても、聞く耳をもつことができる時が来ることを信じて語り続けられたのではないでしょうか。
私たちも、すべての御言葉を今すぐ聞き、理解し、信じられるわけではありません。誰でもそうだと思うのです。それでも聞き続けていると、あるときにすっと心に届くことがある。以前に聞いた御言葉が、あるときからわかるようになる。自分の状況が変わると、耳が開かれることがある。そんな時を待ち望みながら、御言葉を聞き続けることは大切なことでしょう。
それと同じように、今すぐ聞かれないとしても、御言葉を語り続けること、伝え続けることは大切なことです。語られず、伝えられなければ、それが聞かれることもありません。イエス様も、神様も、忍耐をもって語り伝え続けられたように、私たちも忍耐強く、期待をもって語り、伝え続けることが大切です。
実を結び、分かち合う
そのようにしてまかれた種、語られた御言葉が聞かれ、受け入れられると、あるものは30倍、あるものは60倍、あるものは100倍にもなる実を結びます。イエス様のたとえ話は神の国のことを伝えるものですから、神の国は御言葉が聞かれ、何倍もの実を結ぶようなものであり、あるいはそのようなときに現れるものだと考えられます。
そこで一つ考えたことは、何倍もの実を結ぶのは誰のためなのだろうか、ということです。イエス様が語られた時、聞く耳のある人とない人がそこにはいました。聞く耳のある人は、受け取った御言葉が何倍もの実りを結びます。それは御言葉を聞いた人だけのものとなるのでしょうか。
たとえの中では、そのことは語られてはいません。しかしこのたとえが語り伝えられてきたということの中に、その答えがあるように思います。このたとえを聞いたガリラヤの人たちは、それを自分の中に留めるだけでなく、周りの人に語り伝えました。それが福音書となって、さらに多くの人へと伝えられていきました。
御言葉が聞かれること――神の言葉を聞き、神の思いを知り、神の計画へと導かれること――は、聞いた人だけの実りとはなりません。それはその人に留まらず、周りの人に伝わり、後の世代に伝わっていくものです。神様の恵みと祝福は限られた人だけに向けられたものではなく、先に与えられた人を通してすべての人へと伝わっていくものなのです。
神の国とは人と人を分け隔てたり、恵みを独占したりするようなものではありません。先の者が後になり、後の者が先になり、みんなで恵みを分かち合っていきるところです。御言葉を聞いた人が勝ち組となり、力と富を独占する、というようなものではないのです。イエス様が様々な人と共に食事を分かち合われたように、何倍にも増えた御言葉の実りも分かち合われるべきものです。
「聞く耳のある者は聞きなさい」という言葉は、聞き続けることを求めています。ただしそれは、聞く耳のある者だけが聞けばいいとか、聞けない者はどうでもいいとかいうことでは決してない。今、聞くことができる人は限られているかもしれない。それでも語り続けるし、聞くことができた人たちを通して実りが分かち合われていく。その中でもっと多くの人が御言葉を聞き、神様の御心を知り、神様のご計画がなされていく。そのような将来へ向けて、イエス様は語られたのではないかと思うのです。だから私たちも御言葉を聞き、それを語り伝えていくのです。
牧師 杉山望
※このホームページ内の聖句は すべて『聖書 新共同訳』(c)日本聖書協会 から引用しています。
(c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
参考書籍・サイト
『現代聖書注解 マルコによる福音書』L.ウィリアムソン、日本基督教団出版局、1987年

