・思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。 (ペトロの手紙一5章7節)

 私は高校を卒業して、県外の大学へと進学しました。その大学がたまたまミッション系の学校だった為、周りにはクリスチャンの学友が多かったです。またキリスト教を学ぶ授業もあり、自然とキリスト教に親しみを覚えるようになりました。教会へ初めて行ったのは、学友に誘われたのがきっかけです。それから、定期的に教会へ足を運ぶようになりましたが長続きはせず、飽きもあったのでしょう、自然と教会へ行かなくなりました。

 私は大学生になってから、学友に誘われて近所にある柔道の道場へ通っていました。そこの館長ととても親しくさせて頂き、実家から離れて暮らす私にとっては第2の父のように感じていました。大学を卒業してすぐ位の事だったと思います。柔道の稽古に参加するため道場へ入った時、いつもだったら館長がいるのに誰も出てきません。おかしいな、自宅の方にいるのかな、と思い自宅へ行ってみると(道場のすぐそばが自宅でした)、人の気配がないのに鍵が開いていました。私はおかしいなと思いつつ、そのまま帰宅しました。それから数日経ち、道場の先輩から館長が亡くなった、と連絡がありました。心筋梗塞で急な出来事だった、とのことです。しかも、亡くなった日がちょうど私が道場へ行った日だったのです。詳細な話を聞くと、館長は一度救急車で運ばれ一命を取り戻した、とのことですが、「もう大丈夫だ!帰る!」と周りの制止を振り切ってそのまま帰宅してしまい、帰宅後に再発作が起き2回目は対処が間に合わず亡くなった、との事でした。

 私は非常にショックを受けました。悲しさもそうですし、あの時もし自分が鍵の開いている家の中に入っていたら、館長が倒れていたのではないか、助ける事ができたのではないか、と後悔の念も生まれました。そして、どうしてこのような不条理な事を神様は許すのだろうか?と神様を責め立てる自分もいました。それからは何をしても手付かずになってしまい、ボーっと気が抜けた状態で仕事の忙しさに翻弄されながら生活をしていました。

 ある日、休日で駅前をぶらぶらしていた時にたまたま大学のクリスチャンである後輩達と出会いました。これから、他のクリスチャンと集まってバーベキューをするので一緒に参加しませんか?とのこと。暇を持て余していたので、参加する事にしました。バーベキューの楽しい時間は過ぎ、くっちゃべっているうちに自然とそれぞれの悩みや不安を吐露するようになりました。私もその時に初めて、他人に館長の死の事や自分の気持ちを話す事ができました。他人に話す事で、自身の悲しみや後悔といった様々な負の気持が薄れて楽になっていく感覚を覚えました。気が付いていたら、涙をこぼしていました。その瞬間が、私にとっての神様との出会いだったと思います。教会に足を運ばなくなり、神様さえも攻撃してしまう愚かな自分。そのような自分に対しても常にともにいて下さり、救いの手を差し出してくださっている。神様に対して感謝と申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それからすぐに、洗礼を受けクリスチャンになり今に至ります。これからも私は多くの過ちを犯し、苦しい事もたくさんあると思います。しかし、神様は常に私たちと共にいて下さり、過ちを犯した時には気づきを与え赦して下さり、寄り添ってくださっているのです。