礼拝メッセージ(2020年3月15日)

『 主を試してはならない 』 ルカによる福音書 4章:9~13節  林健一 牧師

 こう書いてあるからだ(4:10)。二度も悪魔の誘惑を退けたイエス様に今度は反対に神殿に連れていき聖書にこう「書いてある」と悪魔はイエス様を巧みに誘惑します。何と狡猾な悪魔でしょうか。私たちに対しての誘惑も同じ方法でくるとは限りません。悪魔はこれはダメだとわかると違う角度から誘惑してきます。悪魔の誘惑に対しイエス様は「あなたの神である主を試してはならない」(12)と言われました。この「試す」いう言葉と、「試みる、誘惑する」という言葉とは同じ言葉からできています。イエス様は神様を試みてはならないし、イエス様ご自身も試みてはならないと言われ悪魔の誘惑を撃退されたのです。この「あなたの神である主を試してはならない」とのイエス様の言葉は私・あなたにも向けられた言葉ではないでしょうか。なぜなら私の心には「神様、あなたは本当に私のことを愛しておられるのですか?」と神様の真実と愛に対して疑い、試みてしまうことがあります。神様を試みることで神様と私との間に溝ができるのです。では私たちが神様を試みることから解放されるにはどうしたらよいのでしょうか。
 悪魔はイエス様を神殿の屋根の端に立たせてこう言います。「イエスよ、あなたが神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。信仰のチャレンジをしてみろ。神はあなたを守ってくださると聖書には書いてあるのだから」(4:10~11)簡単にするとこのような内容です。「こう書いてある」というのは旧約聖書の詩篇91編のみ言葉です。詩篇91編は、神様を心から信頼する、神信仰への告白を謳ったものです。「いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は【主】に申し上げよう。『わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神』と。」(詩篇91:1~2)
 神様と私の間にある信頼関係というものが前提にあって神様はすべての道であなたを守ってくださるということなのです。神様と共に歩み進んでいく道において神様はあなたのすべてを守ってくださいます。これに対して悪魔の誘惑とは神様とイエス様との信頼関係を否定するものでした。「神様がいるならあなたを守ってくれる」これは反対に「神様がいるのになぜあなたは守られないのか?」という声でもあるのです。「神がいるなら」こういうはずだと。私たちは自分の尺度で神様の救いやご計画を見てしまいます。神様がいるのなら、なぜ私はこうなのか?良くも悪くも私たちは都合よく神様に対して思うこと、決めつけてしまうことがあります。
 物事が私たちに当面都合よくなったら神様素晴らしいですね。と賛美する。これが私たちの信仰か?そうではないのです。今目の前にあることが私たちにとって悪いことかもしれない喜べないことかもしれない。しかしその事の中にも神様の最善が為されようとしている、いや既に為されているそのことを信じるのです。イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」。これは申命記6章16節のみ言葉です。「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、【主】を試みてはならない。」
詩篇95:8~9「 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。 あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。」

 神様の力によってエジプトで奴隷から解放されたイスラエルの民たちは救われた現実を見ながらも心を頑なにして神様の救いのみ業を見ながらも試し続けたことが描かれています。イスラエルの民の過ちとは神様の恵みと自分の欲とを天秤にかけ自分の欲に重きをかけてしまったことです。自分の願い通りにならない、まだ欲しいと私たちも自分の欲に重きをかけてしまうとき真の恵みが見えなくなってしまいます。もしかしたらイエス様も現実の中でいろいろと思うことがあったかもしれません。しかしそれは神様との関係を崩すものにはなりませんでした。神様をこれ以上「試す」必用がどこにあるのだろうか。神様への信頼と恵みの中に踏みとどまったのです(22:28参照)。私たちもイエス様に倣って神様の中に踏みとどまり続けることができるよう主の守りに導かれて今週も歩んでまいりましょう。

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